『小倉擬百人一首』
(おぐらなぞらえひゃくにんいっしゅ)
国文研蔵の浮世絵『小倉擬百人一首』は、大判錦絵の揃い物で初版。外題、序文、番組が各1枚、天智天皇の歌は2枚ある。弘化2年(1845年)4月~嘉永元年(1848年)12月の刊行。絵師は広重、国芳、豊国。序文や浮世絵の説明文は柳下亭種員で、百人一首の歌の全体もしくは一部分を、伝説や演劇に登場する人物や江戸の風俗に見立てた。
「見立て」とは、ある1点だけ共通する違うものを連想すること。日本の文化や芸能に深く関わる「風流・やつし」という「古典の当世化」とは異なり、主に江戸時代中期以降に遊びの一種として流行した表現様式である。
藤原興風の和歌「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」は、友が皆死んでしまい、1人生き残った老人の孤独を詠んだもの。『小倉擬~』は、これを木曽義仲の家来である樋口次郎兼光が松に登る姿に見立てた。説明文には、浄瑠璃『ひらかな盛衰記』のあらすじが記される。主君義仲が源義経に攻められて戦死し、生き残った樋口は大坂の船頭・松右衛門に身をやつす。
松右衛門は、船を逆走させる「逆櫓」という漕ぎ方ができたため、海戦に備える梶原景時から義経の船の船頭に雇われ、復讐の機会をうかがう。逆櫓の練習中、松右衛門が樋口であることを知った梶原の手下の船頭仲間に襲われる。松右衛門は手下たちを打ち据えたが、周囲の物音に気づいて松によじ登って見渡すと、既に源氏の軍に囲まれていた。
これは、樋口の舅が、預かっている義仲の息子・駒若を助けるため、「松右衛門が樋口だ」と訴えたからだった。樋口は主君に忠義を立てられると喜び、自分で首を掻き落として死ぬ。
一方、『平家物語』によると、樋口は義仲の四天王の1人である勇猛な武将だが、敵を攻めに行っていた時、主君は義経に亡ぼされてしまった。樋口は1人生き残って捕虜となるが公家たちの強い希望で殺される。生き恥をさらし、結局殺された勇者の哀れさに、『平家物語』を知る人々は深く同情した。そうした同情から浄瑠璃は創られたのである。
『小倉擬~』は和歌の「松」を大坂の逆櫓の松に見立て、全体の意味を、主君と共に死ねなかった樋口次郎兼光の哀れさとした。
(副館長 山下則子)
読売新聞多摩版2020年10月7日掲載記事より