大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2024/4/23

多摩の横山 上

(たまのよこやま)

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 赤駒を山野(やまの)にはがし()りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか()らむ(万葉集・巻二十・四四一七)

(栗毛の馬が山野を駆け回るのを捕まえられず、多摩の横山を徒歩で行かせるのだろうか、いとしい夫を)

 防人(さきもり)となり筑紫国へと向かう夫を送る、『万葉集』の武蔵国豊島郡の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の歌である。古代の豊島郡は、現在の東京23区のおおよそ北半分。「多摩の横山」は今の多摩丘陵を指す。横山は、起伏の少ない山が横に広がっているように見える地形のことだから、主として北側から多摩丘陵を見た形容である。
 武蔵国の防人らはいったん国府(府中)に集められ、そこから相模国へと南下して筑紫へと向かったらしい。古代の東海道である。多摩の横山は、武蔵国を旅立ち、先行きの見えぬ彼方へと行く最初の境界であった。「はがし」(はなし、はがち)、「捕りかにて」(捕りかねて)、「かし」(かち)などが東国語の表れという。
 ではこの多摩の横山(玉の横山とも書く)は、次の平安時代にはどう歌われただろうか。今のところ探し出せたのは、一首だけである。

 明がたのみ空ほのかにほととぎす多摩の横山鳴きて越えけり

(明け方の空がほんのり明るくなってくるころ、時鳥が多摩の横山を鳴いて越えてくる声が聞こえてきたよ
である。

 この歌は、『堀河百首』と通称される百首和歌中の、藤原顕仲の作品である。掲出の写真左から四首目にこの歌が見える。『堀河百首』は、「立春」に始まり「祝詞」で終わる百題による百首を、最終的に16人の歌人が詠み、都合1600首を堀河天皇に献上した行事である。長治2(1105)から3年頃に詠まれたと推定されている。300年余りの時を経て、多摩の横山はようやくひととき、文学史上に姿を現した。
 おそらく、山際がほの明るんできた東の空から、多摩の横山を越えて時鳥が飛来してきた、という位置関係なのだろう。多摩の横山を越えれば、相武の境界に由来する名を持つ境川もある。時鳥は境を越えてやってくるのだ。
 現在は伝わらないが、作者の藤原顕仲には、歌学の書もあったらしい。『万葉集』の知識を、誇らしげに示した一首なのであろう。
 この世とあの世とを往来する時鳥は、死を覚悟して任地に赴く防人にふさわしい。時鳥は、山を越えて旅行く黒女の夫の身代わりといえようか。一見変哲もない夏の季節の歌のようでいながら、『万葉集』の世界は、冥界(めいかい)から呼び出された存在であるかのように、平安時代にも受け継がれている。そしてまた、しばらくの間姿をくらます。

(館長 渡部泰明)


読売新聞多摩版2024年3月13日掲載記事より

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