大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2024/3/15

浅間山大焼上州我妻群馬両郡亡損村方絵図

(あさまやまおおやけじょうしゅうあがつまぐんまりょうぐんぼうそんむらかたえず)

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 昨年は浅間山の噴火から240年に当たる。天明3年(1783年)の旧暦4月から、浅間山では断続的に噴火活動が起きた。そして、旧暦7月7日晩から8日にかけて大噴火が起き、麓の鎌原村を壊滅させた後に、泥流が吾妻川沿いの村々を飲み込んでいった。
 泥流は利根川を下っていき、広範囲にわたって洪水を引き起こしている。流れた泥流は銚子(現・千葉県銚子市)に達し、太平洋にまで注ぐこととなった。そのために河川交通の機能も停止し、流通に大きな影響を及ぼすこととなった。吾妻川・利根川・江戸川に沿って、多くの供養塔や慰霊碑が現存しており、被害の深刻さをいまに伝えている。
 「浅間山大焼上州我妻群馬両郡亡損村方絵図」は、信濃国の松代城下町(現・長野市松代町)の商人である八田家に残されていた史料である。松代は真田家の城下町であり、国文学研究資料館では真田家文書約5万5000点、八田家文書約3万点を所蔵している。その八田家文書のひとつが「浅間山大焼上州我妻群馬両郡亡損村方絵図」である。
 この絵図では浅間山からの噴煙や泥流を描き、その泥流に飲み込まれた吾妻・群馬両郡の村々を書き記している。被害の様子も記されており、例えば、北牧村(現・群馬県渋川市北牧)の場合、「不残流(のこらずながる)」、近隣の川嶋村(現・群馬県渋川市川島)の場合、「壱人も不残流失、家・田畑申不及(ひとりものこらずりゅうしつ、いえ・たはたもうすにおよばず)」と見える。
 実際に北牧村では村高863石余のうち460石で泥入りし、53人が亡くなった。川嶋村では村高686石余のうち580石で泥入りし、123人が亡くなった。
 なお、近年、八ッ場ダム造成工事によって泥流に飲み込まれた村々の遺跡・遺物が多く発見された。それらは群馬県長野原町のやんば天明泥流ミュージアムで見ることができる。

(教授 西村慎太郎)


読売新聞多摩版2024年1月31日掲載記事より

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