『須原屋茂兵衛版「寛政武鑑」』
(すはらやもへえばん かんせいぶかん)
「武鑑」は大名および江戸幕府役人の名鑑で、大名家の関する記事(当主の紋所、官職名、家督年月日、江戸城内での席次、系図、江戸屋敷の場所、参勤交代の時期、江戸市中での行列具など)と、幕府役人の記事を掲載する実用書である。池波正太郎の鬼平犯科帳や、土屋章宏の「超高速!参勤交代」シリーズでご存じの方も多いだろう。 武鑑を出版した板元(版元)では江戸の書物問屋である須原屋茂兵衛と出雲寺が著名で、両家は宝暦9年(1759年)以降、100年以上にわたって出版競争を展開した。須原屋はより安定的な継続出版と迅速な記事改訂に努めた。一方、出雲寺は幕府の書物方と細工方に雇用された御用達町人の身分であったが、武鑑については出版文化が成熟した文化・文政期でさえ出版が途絶えがちで、天保期以降に継続をみる。その代わり詳密な記事掲載に刻苦した(拙著『江戸の武家名鑑』)。
興味深い風聞がひとつある。松平定信が近習番の水野為長に情報収集させた「よしの冊子15」(『随筆百花苑』第9巻、中央公論社)である。 一、京極侯御役御免願出候を、もはや御免と相心得候や、須原屋の武鑑ニハ、京極の御名を除き紋計ニいたし置候よし。はやまり候改方とさた仕候よし。 (京極侯は御役を返上したいと将軍に願った。これを辞任決定と理解した須原屋版武鑑では、すでに京極侯の名前を削除して紋所の部分だけ残して出版しているとの噂である。これは早すぎる改訂だと取り沙汰されている)
寛政3年(1791年)刊行の須原屋版「寛政武鑑」第3巻。
復職後の京極高久の記事が記されている。
史料の「京極侯」は丹後峯山藩主・京極高久、「御役」は若年寄職である。寛政2年(1790年)8月の大嵐の日に刀を駕籠に忘れたまま登城し、この話が広まったことで、翌月、高久は自ら謹慎した。翌年2月将軍徳川家斉の粋な計らいで高久は自ら復職した(山本博文『武士の評判記』)。謹慎との情報を得た須原屋が高久の名前を削除した武鑑を出版したことについて、世間では須原屋の勇み足と取り沙汰している。 ただし、この「勇み足」武鑑を筆者はまだ見たことがない。須原屋はすぐに回収したのだろうか。もしも京極高久の紋所のみが残された武鑑を発見された方はお知らせいただきたい。
(教授 藤實久美子)
読売新聞多摩版2020年8月19日掲載記事より