『多摩郡下師岡村の高札』
(たまぐんしももろおかむらのこうさつ)
国文学研究資料館といえば、文学作品や古い書物、古文書などだけを所蔵していると思われがちだが、博物館に展示されているような資料も数多く所蔵している。今回紹介する高札もそのひとつだ。高札とは、法令などを記した木の板で、人びとがよく見える場所に設置された。近世には主に村の有力者の家の前や寺社の前、辻(交差点)、村の出入り口などに建てられた。
今回の高札は、多摩郡下師岡村(現在の東京都青梅市師岡町・東青梅の一部)に明和7年(1770年)に設置された。その後、昭和14年(1939年)日本実業史博物館準備室で調査・整理し、戦後、文部省史料館(現在の国文学研究資料館)で所蔵することとなった。
ここで日本実業史博物館についても触れておこう。渋沢栄一の孫である渋沢敬三(のちに日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた実業家・民俗学者)が戦前・戦中に設立を推進した博物館であり、旧蔵資料の多くは下師岡村の高札と同様に、文部省史料館の所蔵となって現在に至っている。渋沢自身が蒐集した貴重な歴史資料が多く、詳細は国文学研究資料館の「電子資料館」のうち、「日本実業史博物館コレクションデータベース」を参照されたい。
さて、内容は農民の徒党・強訴・逃散のような企てを役所に通報した者は、褒美として銀を与え、苗字帯刀を許すといった内容になっている。当時、農民一揆が増加している時期に当たっており、幕府が農民の統制をもくろんだものであった。
下師岡村の近辺でも、この高札が建てられる直前の宝暦12年(1762年)、領主である田安家(御三卿と称された徳川将軍家の一族)の過酷な農作物収奪の反対闘争をした19ヶ村の人びとが266名も入牢を命じられ、11名が牢死するという悲惨な事件が起きている(宝暦箱訴事件)。
明和7年の徒党・強訴・逃散に関わる高札は全国的に多く遺されているが、宝暦箱訴事件を目の当たりにしている下師岡村の人びとには憤懣と震え上がるような恐怖、そして疑心暗鬼の心情が交錯する眼差しで、この一枚を眺めたことであろう。
(准教授 西村慎太郎)
読売新聞多摩版2020年10月21日掲載記事より