大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2019/6/14

『百家琦行伝』

 天愚孔平(てんぐこうへい)(1733~1817年)とは松江藩江戸詰め藩士、萩野信敏(はぎののぶとし)。通称は喜内。号、鳩谷(きゅうこく)。中年より自ら孔平、別号を天愚と称する。現代では全く忘れ去られた人であるが、江戸時代には奇人として有名で、九州大学名誉教授の中野三敏氏は『江戸狂者伝』(2007年刊)の中で、最も多くの(ページ)を割いて、この誇大妄想気味ではあるが魅力的な彼の側面を丹念に追う。

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※新日本古典籍総合データベースにて全文をご覧いただけます。

 『百家琦行伝(ひゃっかきこうでん)』(国文研蔵、岳亭五岳著、1835年刊)によると、藩の重役である彼は家内では大きなかごの中で読書、外出時は常に雨羽織を着て、古草履を拾い歩いていた。しかし、いざ彼と話すとその論調は高く、博識並ぶ方なかった。神社仏閣に詣でて「天愚孔平」と刷った紙を貼り、千社札中興の祖となったなどである。
 一方、彼の公的生活の精励さは、『列士録』(国文研蔵、出雲国松江松平家文書)に明らかである。松江藩主天隆公(号、南海)、同不昧(ふまい)公、雪川公と、江戸時代中期の有名な文人大名に仕えかつ愛され、徂徠(そらい)学末流の一人として多くの著述をなし、大槻玄沢(げんたく)著『蘭学階梯(らんがくかいてい)』に長い漢文序文を記す。
 同書刊行を進めた丹波福知山藩主朽木(くつき)昌綱は、蘭学好きな茶人大名で有名だが、やはり天愚を重用した。寛政改革について、天愚は松平定信を人格者と認めた上で、その倹約令を、天下の情勢や時勢の変化を無視した無謀な施策と考えたと思われる。
 天愚の四女そよ(しの)は、寛政初年(1789年)頃、八王子の旧家津戸家(伊丹屋)に嫁ぐ。天愚が(しゅうと)の津戸孫右衛門に送った多くの書状は、手写本が天理図書館に残る(竹清叢書『天愚手牘(しゅとく)』)。書状の中には「鳩谷鍋(はとやなべ)」「天愚釜(てんぐがま)」などと名付けた品の宣伝文も交じる。
 病弱なそよは、産後赤子を何人も早世させてしまう。ようやく育った孫を見せに里帰りし、そよは戻った直後に急死。天愚は、何事も手につかず、悲しみを紛らわそうと平曲今様などを歌っては、近所をはばかる息子に叱られる。得意な碑文も作る気にもなれない。書状はこの奇人の人間味を鮮やかに伝える。

(副館長・山下則子)


読売新聞多摩版2019年6月12日掲載記事より

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