『山家集』
(さんかしゅう)
嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな
(嘆けと月が悩ませたりするはずがあろうか。でも月のせいだといわんばかりに私は涙にくれている)
『百人一首』の西行の一首としてよく知られているが、いま西行の家集(個人の歌集)『山家集』から引用した。この一首に現代に通じる入り組んだ自意識を感じて興味をひかれ、学生時代に専門領域を決めるきっかけの一つとなった。 写真は、当館の松野陽一元館長の旧蔵本で、現在松野陽一文庫の一冊として当館に収蔵されている『山家集』の写本である。
どうやら私は勘違いをしていたらしい。この歌のモチーフを、月故に恋の悲しみをつのらせる我を自己分析する自意識と見なしていたのだったが、誤っていたようだ。 恋部に入っているので恋歌であることは確かだが、「嘆けといって月が物思いをさせようか」という上句が示されたら、古人はどう思っただろうか。 「もちろん月ではなく、あなたのせいだ」と言いたいのだなと受け取り、続く言葉で恨み言を言われると予想しただろう。 ところが、その身構えは軽くはぐらかされて、まるで涙が意志を持った人間のように表され、悲しみに浸る自分の感情を、いささか戯画的に見つめる作者が立ち現れる。
では、その時何が起こるだろう? 恨まれるかと警戒していると、滑稽さすら漂わせる自問自答へとすり替わる。 ちょっとした安堵感に誘われて、作者の恋の悲しみにいっそうのめり込んでしまう。 と同時に、その悲しみを他人の目で見る、したたかな自分をも手に入れる。一首は、西行の自作
身をしれば人のとがには思はぬに 恨み顔にも濡るる袖かな(山家集)
(身の程を知っているので人のせいとは思わないが、恨みがましく袖は涙で濡れるばかり)
とよく似た主題だが、月を持ち出すことで共感を深めている。悲しみに浸りながらもそれを制御する道を示す、より深い境地に至っている。西行の歌の人気の秘密はその辺りにありそうだ。
(館長 渡部泰明)
読売新聞多摩版2022年1月12日掲載記事より