『百人一首』
うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
『百人一首』の中から、源俊頼の歌を取り上げよう。「薄情だったあの人を、まるで初瀬の山から吹き下ろす風のように、いっそうひどくなれ、などと祈ったわけではないのに」。恋の成就を、奈良県の初瀬にある長谷寺の観音様に祈ったというのに、なんと相手はもっと冷たくなったと嘆いている。
『百人一首』のかるたになじんだ方なら、第三句の「山おろしよ」は、「山おろし」と覚えていることだろう。しかし、「よ」が付くのが本来の形で、堯恵(中世の正統派歌人)が1492年に書写した、国文学研究資料館所蔵の『百人一首』の久松潜一旧蔵古写本にも、「山おろしよ」とある。この違いは大きい。「初瀬の山おろし」の方は、この語句をそっくり取り外してみると、文脈がすっきりしてよく分かるようになる。簡単にいえば「はげしかれ」の比喩となり、実際に吹いていなくてもよいことになる。一方「よ」が付けば「山おろし」への呼びかけとなり、今まさに荒々しく吹いている。和歌が格段に強く、激しくなる。
ではこの「初瀬の山おろし」はどんな風なのだろう。
泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む(万葉集・巻十・作者未詳)
「初瀬風」は初瀬を吹く風のこと。その風がこうもひどく吹く夜は、衣を片敷いていつまで私は独りで寝るのだろうかと、初瀬の山風が、恋人のいない孤独をつのらせている。『万葉集』に詳しかった源俊頼は、この歌に触発された可能性がある、と私は思う。そうすると、歌の味わいも違ってくる。「長谷寺に祈ったのに、その効験もなく、むしろ、初瀬山の風の音はいっそう激しさを増し、寂しさの傷を深める。まるであの人のように、むごく。お願いだからそんなにひどく吹かないで、山おろしよ」。強く、激しいのは確かながら、またずいぶん艶めかしい歌になるではないか。
(館長 渡部泰明)
読売新聞多摩版2021年6月9日掲載記事より