『詠歌大概』
(えいがのたいがい)
古典籍の最後には「奥書」という漢文体で書かれた記録がある。どのような写本をどこから手に入れたか、いつどこで書写したか等の履歴である。作品本文に比べてほとんど読まれる機会がないが、遠い昔、それを書写した人物が、机に向かっている後ろ姿が垣間見えるような情報が多い。例えば藤原定家は承久の乱の直前、公の世界から距離を置き、ひとり『古今集』注釈作業に専心していたが、雨の日、「承久三年三月廿八日 雨中注付之 八座沈老」と筆を置く。
創作のためにも静寂な空間を必要とした歌人がいた。鴨長明の歌論書『無名抄』は俊成卿女の詠作法を記している。「人の語り侍りしは、俊成卿女は、晴の歌詠まむとては、まづ日頃かけてもろもろの集どもを繰り返しよくよく見て、思ふばかり見終はりぬればみな取り置きて、火かすかにともし、人遠く、音なくしてぞ案ぜられける」。王朝和歌が時と場に応じて、対人的に即詠することが尊ばれたのに対し、中世和歌には創作する歌人一人がもつ特別な空間が存在したのである。
定家の場合、詠作に際しては日常の空間にしばられず、清涼な風景を思い浮かべることを勧めている。『詠歌大概』という歌論書では「常に古歌の景気を観念し、心に染むべし」と古歌の世界をイメージして心を澄ませと教えている。本歌取りで本歌の三句を取り込むのは取り過ぎですよ、『古今集』『後撰集』『拾遺集』『伊勢物語』『三十六人集』の上手な歌人の歌を思い浮かべなさい、と様々な指導を述べた後、次のように言う。
「和歌に師匠なし。ただ旧歌を以って師となす。心を古風に染め、詞を先達に習はば、誰人かこれを詠ぜざらんや」。和歌の道に本来師匠はいない。古歌のことばこそが、あなたを導いてくれるという。勿論、定家は実際には和歌指導の師弟関係を結び、求めに応じて歌論書を執筆し、歌書を書写した。彼が特異なのは、歌学の知識や古今伝授の秘説を、師匠から忠実に継承することが重要になり始めた時代に、歌人が自立することを求めたことである。
国文学研究資料館は『詠歌大概』の南北朝時代写の写本を所蔵する。定家の曾孫冷泉為秀筆と鑑定されるもので、現存最古に属する。中央部が焼け焦げて破損し、一部補修跡もあり、守り伝えた人の営為も偲ばれる。
(機関研究員 幾浦裕之)
読売新聞多摩版2021年6月16日掲載記事より