播磨屋中井家日記「窮民群衆一件」
(はりまやなかいけにっき きゅうみんぐんしゅういっけん)
国文学研究資料館が所蔵する歴史資料60万点のなかに江戸の両替商である播磨屋中井家の日記83冊がある。今回はその日記から慶応2年9月20日条に記されている「窮民群衆一件」を紹介しよう。慶応2年は全国的に不作の年であったうえに、第2次幕長戦争(長州征伐、6~8月)が起こって米価が異常に高騰し人々の生活は苦しくなっていたというのが前提状況である。
9月15、16日頃に亀井戸・本所回向院そのほか寺々へ「困窮人」と認めた旗が立って多人数が集り、近辺の富裕者に米の提供を強要し境内で炊き出しを行った。18日夜には神田辺で群衆が発生し、「神田小柳町」と認めた紙の旗を立て50、60人が当店へ来て食べ物の提供を要求されたので米1斗を渡した。その後、追々一群ずつ紙の旗を立てて来たため、それぞれ米を渡した。18日は本所、深川、霊岸嶋、浅草蔵前から窮民が来て内神田に来た。前代未聞のことである。三谷、三井越後屋、竹原などの豪商たちも同様であった。浅草御蔵前に窮民が群衆しているところへ浅草見物の女性外国人が馬上でさしかかり、諸物価高騰は「異人」が渡来したからだと礫を投げつけられた。「女異人」は浅草御蔵内へ避難した。佐久間町河岸に御救小屋が設置されたが最早不穏な状態となり意味がないだろう。
このような記述のところに彩色された絵が貼付されている。紹介した不穏状況に対応して幕府が出した治安部隊の絵である。絵師は歌川芳玉。名主・家守が先頭を歩き、そのあとに幕府歩兵100人が続く。先頭の歩兵は西洋風に太鼓を叩いており、全員洋式銃で武装している。洋式軍隊である。さらに馬上の町奉行が与力、同心を20、30人に囲まれて続き、その次は「別手組」(外国人警護部隊)100人である。掲載した写真は町奉行までの部分である。幕府の洋式軍隊は安政・文久の幕政改革を経て整備されていった。国土防衛が目的であったが、実際の戦争相手が薩長となったことは読者もご存じの通りである。しかし、こうした治安部隊としても活動したことがこの絵からもわかる。
(教授 渡辺浩一)
読売新聞多摩版2023年6月7日掲載記事より