南都百首
(なんとひゃくしゅ)
戦乱の世にあっても、人は文学を希求する。いや、危機意識と共に生きている時こそ、人は文学というもの、とりわけ文化的伝統の蓄積である古典の世界に、心のよりどころを求めるのかもしれない。
「南都百首」は、室町時代に関白をつとめ、当代きっての碩学であった一条兼良(かねら/かねよし)が詠んだ。南都とは、京の都の南方に位置する旧都奈良のことで、百首すべてに奈良周辺の大和国の歌枕が詠み込まれている。たとえば最初の一首を見てみよう。「立春/飛鳥(あすか)川ながれてはやきとしなみもけふを春とやたちかへるらむ」。「立春」題で「飛鳥川」を詠み込む。以下「子日」「霞」「鶯」「若菜」と春の題が並ぶ。これは堀河百首題と言い、春夏秋冬・恋・雑といった『古今和歌集』以来の美意識を百の歌題に集約したもの。いわば和歌の伝統的な世界をダイジェストした題材だ。「南都百首」は、古典和歌の伝統に基づく題材で、大和国の歌枕を詠み込む趣向も組み合わせた作品なのである。
では、この百首はいつ詠まれたのだろうか。成立は文明5年(1473年)頃と推定されている。時に兼良72歳、応仁の乱を避け、息子で興福寺大乗院門跡である尋尊を頼って、奈良に寄寓していた。冒頭に「桑門覚恵」とある。桑門は僧侶の意、覚恵は兼良の法名で、出家後に詠まれたと知られる。京の戦火により、兼良は膨大な蔵書を焼失する憂き目に遭った。南都疎開は約9年間に及んだが、源氏物語注釈『花鳥余情』など彼の古典学の主著はその間に執筆され、「南都百首」も奈良で詠まれたのである。再び最初の歌を読んでみたい。飛鳥川が流れて波が立つように、早く過ぎゆく歳月の波も、今日を春になる日だといって移り変わるのだろうか、の意。立春の訪れを、飛鳥川の急流のイメージと組み合わせて表現しつつ、「としなみ(年波)」の語に歳月と年齢を重ねた述懐がにじむ。和歌を詠むことは、単なる上流貴族の疎開先での消閑の具であったろうか。
ここに掲出した国文研所蔵本は、「土御門院御百首」などの他作品も取り合わせて一冊とし、宝暦2年(1752年)の識語を有する写本。国立公文書館内閣文庫には、林羅山旧蔵で江戸初期写一冊の「南都百首」が蔵される。いずれも国書データベースで、画像を誰でも気軽に見ることができる。
(教授 岡﨑真紀子)
読売新聞多摩版2023年5月31日掲載記事より