神奈川県西多摩郡青梅蚕糸業組合規約
私は東京都青梅市の生まれである。稼働していたかどうかは定かではないが、自分が幼少期の昭和50年代には、まだ多くの織物工場が残っていた。近世の青梅地域は江戸から甲斐国(現在の山梨県)へと延びる青梅街道の宿場町として発展し、多くの物資が集まって市場が成立した。多摩地域における交通と流通の要衝といえよう。そして、近代に至って、青梅の織物はますます盛んになっていった。
当館では日本実業史博物館準備室旧蔵資料を収蔵している。日本実業史博物館準備室とは、実業家の渋沢栄一没後、顕彰事業として計画されたものである。栄一の孫であり、実業家とともに民俗学者として著名な渋沢敬三を中心に資料収集が行われた。アジア・太平洋戦争により日本実業史博物館準備室設立計画は頓挫し、戦後、多くの資料が文部省史料館(現在の国文学研究資料館)に寄贈された。
日本実業史博物館準備室旧蔵資料の中には多摩地域の資料が数多く確認でき、今回紹介する明治20年(1887年)5月刊行の「神奈川県西多摩郡青梅蚕糸業組合規約」もそのひとつである。なお、「神奈川県西多摩郡」と記されているが、明治26年の三多摩の東京府編入以前の資料であるためだ。
青梅蚕糸業組合は青梅町ほか43か村の蚕糸業者を対象とした組合組織である。当時、日本政府は生糸の輸出時による外貨獲得を推進しており、蚕糸業は興隆の一途を辿っていた。青梅地域でも、のちに青梅電気鉄道(現在のJR青梅線)取締役や青梅町長に就任した平岡久左衛門らが、この潮流に乗るべく組合を結成した。
その目論見は見事に成功し、織物産業によって青梅は発展していった。この活版印刷の「神奈川県西多摩郡青梅蚕糸業組合規約」にその端緒が垣間見られる。
(教授 西村慎太郎)
読売新聞多摩版2023年6月14日掲載記事より