播磨屋中井家日記
(はりまやなかいけにっき)
国文学研究資料館が所蔵している播磨屋中井家日記の慶応元年(1865年)五月十六日条には次のような記事が書かれている。
「いよいよ将軍様が御進発(第2次長州戦争に出発)である。その道筋は江戸城西丸(本丸御殿は1863年に焼失)から数寄屋橋御門・尾張町から芝口通を進んだ。もともとはこうした場合横丁の木戸などが締め切られるなど警備が厳しかったのだが最近は寛大となっており、市民は街に出て、御行軍を拝し奉った。上様は御馬上の装いが勇ましく、先陣は御老中松平周防守様・若年寄増山対馬守様・土岐山城守様、後陣は老中松前伊豆守様・若年寄立花出雲守様、そのほか御馬の左右を御側の面々が進む。徳川将軍家御伝来の五本骨扇の馬印や、虎皮の柄の御鎗なども拝し奉った。御使者の面々は五之字の御陣羽織、騎馬徒立の面々も何れも陣羽織を着ている。大砲・小筒組に至るまで人数を数えることもできないほど多い。その勢いからすれば、長州藩がたちまち平定されることは言うまでもなく、程なく将軍様は御帰陣されるだろうと市中一同は話し合っている。家康・秀忠・家光様以来絶えてなかった御上洛も二度までなさり、そのうえ今般御進発あらせられることは本当に恐れ入り奉ることである。何とぞ一日も早く御帰城を仰ぎ奉る事である。」(わかりやすくするために適宜表現を改変して現代語訳)
第2次長州戦争に将軍家茂が江戸を出発する様子が描写されている。江戸の町人たちが多数行列を拝んだこと、将軍の様子が勇ましいこと、行列の構成や衣装などが細かく書かれている。さらに幕府が長州藩に勝利することは当然のことと考えている。しかし、158年後の私たちは結果を知っている。幕府は苦戦し、将軍家茂は江戸に戻ることなく翌慶応2年8月20日に大坂城で病没する。「程なく御帰陣」ということは実現しなかった。
播磨屋中井家は江戸の大きな両替商であり、その業務日誌は数人の手代たちが書いている。彼らは、現代風にいえば大銀行のエリートたちである。そのような彼らですら幕府の勝利を微塵も疑っていなかった。しかし、最後の方では将軍が江戸から長期間離れることには違和感を抱いているようにも読める。3年後の幕府倒壊を無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
(教授 渡辺浩一)
読売新聞多摩版2023年3月1日掲載記事より