大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2023/3/22

大岡日記

(おおおかにっき)

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 テレビ時代劇「大岡越前」のモデルとなった大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけの日記138冊(1736~1751年)が国文学研究資料館には寄託されている。この日記は、大岡忠相が町奉行のあと寺社奉行になっている時期の日記である。ただ、彼は地域行政担当官も兼ねていたので、この日記には多摩地域のこともたくさん書かれている。
 さて、寛保2年(1742年)8月に本州中央部を台風が縦断した。秩父から奥多摩山地にかけて豪雨が降ったため、ここを水源とする千曲川、多摩川、荒川、利根川が同時に氾濫した。2019年の台風19号をもっと強大にしたものだったのだろう。
 寛保水害のあと、幕府は堤防の復旧を行う。その基本方針は、堤防工事は復旧のみであり新規工事は行わない、ある程度の増水に耐えられればよい、というものだった。こうした洪水を受容する考え方は当時の一般的なものと思われる。しかし、そうはいっても適切な場所に新規に堤防を築けば被害を小さくすることは当時の土木技術でも可能である。
 台風から約2ヶ月後の寛保2年10月20日条の大岡日記には、以下のような幕閣での議論が記録されている。勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)と水野忠伸は「多摩川筋の既存堤防の修復は完成しているはずであり、『新規之堤ハ難成』(新規の堤防はできない)」と発言する。これに対し大岡は「それでは『所之御救ニも難成』(現地の百姓の救済にもならない)」と疑問を呈する。吉宗の側近である加納久通(かのうひさみち)は「新規工事を行わないというのは全体的なことであって、特別な理由があれば許可されるのではないか」と発言し、この日の意見交換は終わる。勘定奉行の発言は当時の基本方針に沿ったものであり、財政担当者の立場からすれば当然の内容である。しかし、大岡は被災者の救済を重視する考えを表明している。テレビドラマは全くの作り話ではあるが、事実と真逆のイメージをふりまいているわけではないとも言えるのかもしれない。

(教授 渡辺浩一)

読売新聞多摩版2023年2月1日掲載記事より

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