大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/2/22

『保字金引替群衆絵図面』

(ほじきんひきかえぐんしゅうえずめん)

(全体図)1000watanabe4_1.JPG

(全体図の右下を拡大した図)1000watanabe4_2.jpg

 当館所蔵の江戸金吹町播磨屋中井家文書は、江戸時代後半から明治時代にかけて約100年わたる分厚い日記を83冊含む。そのなかの「安政七年 改五拾九番日記」には写真のような絵画史料「保字金引替群集絵図面」が挟み込まれていた。「保字金」とは天保8年(1837年)から発行の天保小判などのこと。裏面に発行年次などを表す「保」字の極印が打たれている。この絵画史料には改鋳された貨幣を旧貨幣と交換するために両替商の店舗に殺到した人々が描かれている。
 画面奥の黒々と描かれている建物が播磨屋中井家の店舗である。その手前あたりの人々は頭だけがポコポコ並んで描かれており、いかにひしめき合っていたかがわかる。その人数は一日で5、6千人にも及んだという。人々が交換を急いだのは、旧貨幣の通用停止が予告されていたことと、金含有率の高い今までの旧貨幣との交換では2~5倍の額面の新貨幣と交換できたからである。
 このため、播磨屋では整理券を配ることとなったが、それにもこの絵のように人々がたくさん集まった。商人自身だけでなく、整理券をゲットするために雇われてきた人もたくさんおり、さらには整理券が売買の対象にもなったということである。右下の方には、集まってきた人々を当て込んだそば屋や茶飯屋が描かれている。
 これは安政7年すなわち万延元年(1860年)のことであり、当時は、海外貿易開始による金貨流出が大問題となっていた。当時の国際貿易における金銀比価と比べると、日本の金は3分の1の価格であったため、金貨が大量に日本から流出していった。幕府は、小判一枚あたりの重さを大幅に下げて、つまり額面あたりの金含有量を大幅に下げて、国際金銀比価に近づけようとした。と同時に、この貨幣改鋳によって幕府は莫大(ばくだい)な収入を得て、軍事改革の資金としたのである(藤田覚『勘定奉行の江戸時代』ちくま新書、二〇一八年)。
 また、金流出の代わりに洋銀が大量に流入し、日本国内では洋銀を日本の貨幣に両替することが難しくなっていた。両替相場も乱高下し大損する人も多かった。そのような状況がこの日記では「その混乱は筆紙に尽くすことができない」と評されている。幕末の金融混乱を表す貴重な史料である。

(教授 渡辺浩一) 


読売新聞多摩版2022年2月2日掲載記事より

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