大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2024/2/ 7

播磨屋中井家日記(慶応四年正月十日条)

(はりまやなかいけにっき けいおうよねんしょうがつとおかじょう)

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 今回も国文学研究資料館が所蔵する歴史資料60万点のなかから、江戸の両替商播磨屋中井家日記を引き続き紹介していく。前々回と前回(10月25日・11月1日付)は慶応3年12月25日条、江戸薩摩藩邸焼き討ちの記事を紹介した。その8日後、慶応4年正月3日から6日にかけて、鳥羽・伏見の戦いがあった。戊辰戦争の始まりである。
 この情報を播磨屋中井家はいつ知ったか。正月10日条には以下のような記事がある。今回は原文の雰囲気を味わっていただくため、書き下し文を引用する。

一、大坂表正月四日五日出の書状今朝五ツ時着の処、京都表正月三四日頃趣意相分らず候えども、薩・長・土京都詰の藩と 上様御上洛の先手と戦争これ有り、伏見・淀・鳥羽辺り砲火、ならびに大坂表薩州屋敷は自焼、彼れ是れ京都は勿論大坂市中殊のほか混雑し、為替受け払いも出来兼ね候趣、白安・白彦より申し参る、恐縮し恐れ入り奉り候。

 大坂(当時はこのように表記した)から正月4日と5日に出された書状が今朝8時頃届いた。京都二軍隊を駐留させている薩摩・長州・土佐の意図はよくわからないけれども、正月3、4日頃に、彼らと、将軍(慶喜)様ご上洛(じょうらく)先鋒(せんぽう)隊との間で戦闘があった。伏見・淀・鳥羽辺りで砲火が飛び交い、大坂の薩摩藩邸は自焼した。京都はもちろん大坂市中は特に混乱し、為替の受払いもできないことを大坂の白山安兵衛・白山彦五郎から知らせてきた。大変恐縮している。
 以上が現代語訳である。この限りでは戦闘があったことがわかるだけで勝敗についての情報はない。書状が発出された時点でまだ戦闘が終了していなかったからであろう。慶喜は正月6日に大坂城を脱出し、11日に品川沖に着いている(宮地正人「幕末維新変革史 下」)。
 その前に中井家がこの情報を受け取っていることになり、町人としては早い部類に属するのだろう。為替送金と受取ができないことが書かれているのはいかにも両替商の手代らしい記述である。
 写真の左側のページには、奉公人の民蔵が播磨屋中井家を代表して伊勢と秋葉山への参詣に出発することが書かれている。毎年正月10日条に必ず出てくる記事である。時代の転換点にあっても、それまでの日常が変わりなく続いていたこともわかる。

(教授 渡辺浩一)


読売新聞多摩版2024年1月17日掲載記事より

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