播磨屋中井家日記(霜月十五日賊一件)【下】
(はりまやなかいけにっき しもつきじゅうごにちぞくいっけん)
国文学研究資料館歴史資料のなかの一つである「播磨屋中井家日記」に貼り付けられていた慶応3年(1867年)の「霜月十五日賊一件」の続きを紹介する。武装集団が播磨屋中井家を襲い、奉公人たちが逃げ回っている状況である。
奉公人たちがそうしているうちに、賊頭は呼子の笛を吹き、「引き揚げろ」と言ってしばらく物音が止んだ。芳太郎は2階から店の「前之間」辺りに来て、廊下の口から提灯を差し出すと、店の方に集まっている者がいる。
彼は店内の者と思って声を掛けてみたところ、頭巾をかぶって短筒を持った者が「来い来い」と呼び止めるので、驚いてまた2階へ逃げ上がった。賊はやにわに2、3発発射したが、玉は外れた。芳太郎はすぐに「地獄ひつ」に逃げ込み「実に地獄の呵責もこのようなものか」と、ただ念仏を唱えた。
さて、賊徒は丁稚の米治郎を見つけて店の穴蔵に案内させ、鍵を刃でこじったり、鉄砲を撃ち掛けたり、大斧で14、15回も続け撃ちにして錠前を破り、穴蔵に降りた。そこには1万1000両が六つの袋に分けてあり、そのほか多額の現金があった。
幕府歩兵隊の両替町・駿河町詰所から20~30人ほどが繰り出し、本町長屋の前に集まって発砲したため、賊徒は逃げ足になり、歩兵隊は自身番の太鼓を打たせ、勝ちどき上げて追討した。「謀計」があるかもしれないということで、深追いはしなかった。
最後にこの事件は、このようにまとめられた。
「中井家内には鉄砲の穴が数か所あったけれども、旦那・奥方、店の奉公人、台所奉公人、女中に至るまで一人もけがはなかった。これは神仏のお恵み、また旦那様の『御運徳』のおかげと、奉公人一同は中井家当主・家族も含め全員無事であったことのみ祝った」
以上は、まるで時代劇のワンシーンのようであるが、私の創作は一切含まれていない。原文はこれ以上に詳細である。なお、翌日に提出された被害届によれば、このとき盗まれた総額は8893両であった。
(教授 渡辺浩一)
読売新聞多摩版2023年8月30日掲載記事より