方丈記
(ほうじょうき)
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし」。印象的なフレーズではじまる『方丈記』の冒頭は、すべての事物に永遠なるものはなく、すべての事物は移り変わり流転してゆくという、いわゆる無常観の思想を簡素で美しい言葉で表現したものとして、多くの人の記憶にとどめられているのではないだろうか。
地震や水害、大火事、疫病といった度重なる災厄に襲われた京都の様子を克明に描き、極限の環境下で心の平穏を求めた文学として、東日本大震災の折りにはあらためて衆目を集めることもあった。震災の翌年の2012年は、『方丈記』が執筆されてから800年にあたる節目の年で、国文学研究資料館では「方丈記八〇〇年記念 鴨長明とその時代」と題した特別展を行った。
掲出の写本はその直前に当館に移管され展示したもので、書誌学者・川瀬一馬(1906~1999年)旧蔵の一冊。川瀬は『日本書誌学之研究』(講談社、1943年)、『古活字版之研究』(日本古書籍商協会、1967年)等に結実する、日本の書物の歴史とその特質についての研究を重ねて日本書誌学を大成した大学者で、『講談社文庫 方丈記』(講談社、1971年)の校注者でもある。筆まめな人で、川瀬の旧蔵書にはその書物とどこで出会い、どのようにして入手したのか、また、どのような価値があるのかなど、伝来と意義に関わる情報を細やかに書き付けたものが多い。あまたの書物を求めて比較検討し、その形質的差異がいかなる事情に由来するのかを解き明かす研究を通して、書物の姿の移り変わりに日本における知の深化と文化の展開を見た人でもあった。
この写本にもその末尾に、幕末から昭和にかけての考証家・田中勘兵衛(教忠、1838~1934年)の旧蔵書で、先述の文庫本のもととなった川瀬校注の『新註国文学叢書 方丈記』(講談社 一九四八年)上梓の記念に吉田久兵衛(文淵閣・朝倉屋。江戸時代より現在に続く古書店の店主)より贈られた旨が書き付けられている。書物が結ぶ人の縁が移り変わりながらも続いてゆくことを書きとどめた一例である。
(教授 海野圭介)
読売新聞多摩版2022年9月14日掲載記事より