大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/10/19

伝二条為氏筆『伊勢物語』

(でんにじょうためうじひつ『いせものがたり』)

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 平安時代中期頃に成立した歌物語である『伊勢物語』は、古典の教科書にも取り上げられていて、多くの人になじみのある作品だろう。「昔男、初冠して、奈良の京、春日の里に知るよしして、狩りにいにけり」(昔、ある男が元服して、奈良の都、春日の里に領地を持っていたので、狩りに出かけて行った)と唐突に始まり、また急激に展開するストーリーにいささか戸惑いを覚えた記憶のある方も多いのではないか。
 百二十五段にわたってつづられるこの作品の各章段はとても短く、行文もあっさりしていて、主人公や女君についても「むかしおとこ」や「女」などと記されるのみで、それがどのような人物なのかも積極的には語られない。 成立直後には物語の背景も読者に共有されていて、こうした簡素な描写でも十分に意が通じたのだろうが、時代が下るにつれてそうした記憶も薄れてゆく。 後代の読者の中には、この曖昧でぼんやりとした世界にはっきりとした輪郭を持たせたいという欲求が生じた者も少なからずいたようで、しだいに登場人物のそれぞれを実在の人物に比定してその経歴を探索したり、記される行為の意図を推測して登場人物の心情を忖度(そんたく)したりするようにして読まれるようになっていった。

※右上部分を拡大。書き出しの上部には「業平」とある。

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  掲出の一冊は、鎌倉時代後期の歌人・二条為氏(ためうじ)(1222~1286年)による書写と伝える端正な写本。 大きな文字で記される物語本文の上部欄外や行間には、物語の理解を助けるための注釈が細かな文字で書き入れられている。 冒頭の「むかしおとこ」の上部には「業平」とあり、その「男」ってあの色好みの在原業平(ありわらのなりひら)(825~880年)でしょう?  と、物語本文ではぼやかされていた秘密が暴露されている。禁忌の恋など醜聞をも描く『伊勢物語』の読者にとって、その当事者が誰なのかは関心を引く事柄であった。 それが歴史的事実であったか否かを確かめる(すべ)はないものの、この写本は、まさに行間を読むことによって、物語の細部が補填(ほてん)され、秘された物語の深意が解き明かされるように書写されている。 『伊勢物語』の読者達の関心がどこにあったのかを如実に伝える遺品と言えよう。

(教授 海野圭介)

読売新聞多摩版2022年8月31日掲載記事より

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