大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/9/13

百人一首歌加留多 烏丸光廣卿書

(ひゃくにんいっしゅうたかるた からすまるみつひろきょうしょ)

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 国宝『源氏物語絵巻』を別にすれば、平安時代に書写された『源氏物語』というものは残っていない。では成立当初の『源氏物語』に絵があったであろうか。おそらくなかった。同様のことは『百人一首』にもあてはまる。現在の競技かるたの『百人一首』かるたには、読み札に歌人名と歌人の絵と一首全体が、取り札には下の句が書かれている。しかし江戸時代のかるたは必ずしもこの書式ではなかった。
 藤原定家が息子為家(ためいえ)の妻の父である宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の求めに応じて『百人秀歌』を編さんし、それを後代の何者かが歌は数首を、配列は大幅に入れ替えて『百人一首』が成立した。『百人一首』は中世の歌学で重視され、次々と注釈書が書かれ、様々な類書が作成された。『百人一首』がかるたになったのは江戸時代になってからである。
 国文学研究資料館では『百人一首』かるたの札の書き方の見本帳を所蔵する。徳川御三卿の田安徳川家の旧蔵資料。平安時代の藤原行成(こうぜい)を祖とする世尊寺流(せそんじりゅう)が戦国時代の世尊寺行季(ゆきすえ)を最後に断絶し、それを継承する持明院流(じみょういんりゅう)という書道の流派が成立した。持明院家の入木道伝書(じゅぼくどうでんしょ)は色紙形や散らし書きのひな形(テンプレート)を多く含み、『百人一首歌加留多 烏丸光廣卿書』はその一冊である。
 能書家であった烏丸光広(からすまるみつひろ)の筆跡である、と鑑定した古筆了伴(こひつりょうはん)の極め札も書写されている。かるたの札には上の句・下の句のみが読み札と取り札に書かれ、歌人の絵が入る余白もなく、歌のことばが躍っている。「散らし書き」といいつつ無作為なものでなく、見本帳が必要とされたのである。資料全体の詳細は、海野圭介、金子馨「国文学研究資料館蔵田安徳川家旧蔵入木道伝書 解題(持明院家篇)」(当館サイトにて公開中)を参照されたい。
 現代の古典籍の市場や所蔵機関にある『百人一首』かるたはしばしば、札の何枚かが欠けた状態のものである。子どもたちが遊んでいるうちに、どこかになくしてしまったのだろうか。なくした子どもは気づいただろうか、やがて忘れてしまっただろうか。順徳院「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」。この一首は、歴史を背負った内裏の軒を見上げ、昔の人々が空を見上げた「眺め」を思いやる。「なほあまりある昔」いわば思い出せないほどの過去の人々の痕跡が、古典のなかに隠れている。

(特任助教 幾浦裕之)

読売新聞多摩版2022年9月7日掲載記事より

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