『新古今和歌集』
(しんこきんわかしゅう)
後鳥羽上皇(1180~1239年)の下命によって編纂された八番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』は、上皇の精撰への情熱に応じて、長期にわたって改訂の手が加えられたことが知られている。 実務を担当する和歌所が設置された建仁元年(1201年)から4年後の元久2年(1205年)3月26日には、撰集を記念して竟宴が催されたが、その後も和歌の入れ替えや配列の変更が繰り返され、承元3年(1209年)あるいは翌4年頃に8年あまりを費やしてようやく完成に至ったと考えられている。 建保4年(1216年)に和歌所開闔(記録や文案の検査をする役)であった源家長(?~1234年)が書写したのを完成とみる旧来の説に従うのならば、その期間は15年に及ぶこととなる。
結果として、長く複雑な編纂過程の様々な段階で作成された素案が残され、一口に『新古今和歌集』と言っても、収められた和歌の数や配列が異なる写本が今に伝わることとなった。『新古今和歌集』の研究は、どれが完成された『新古今和歌集』なのか?という根本的な課題への対応を迫られることなったが、その解決に大きな足跡を残した研究者に後藤重郎(1921~2006年)がいる。 後藤は、『新古今和歌集』の主要な伝本を調査。それぞれの特質や他本との差異を逐一記録することを通して写本の相互関係を明らかにし、『新古今和歌集』の成立過程を論じた。 その説は幾つかの修正を経つつも現在も定説となっている。
前人未踏の研究の過程で、後藤が収集した『新古今和歌集』を中心とした中世和歌に関する資料61点が、懐風弄月文庫として国文研に一括保管されている。 後藤の論文の中で「架蔵」として示される貴重な写本も、現在では国文研の公開する「新日本古典籍総合データベース」を通して、そのデジタル画像を誰でも目にすることができる。
掲載図は、「岩山民部少輔本」の呼称で知られる写本。『新古今和歌集』撰者の一人、藤原定家(1162~1241年)の孫・冷泉為相(1263~1328年)の奥書を記す貴重な伝本であり、また、近代における『新古今和歌集』理解の歴史を見届けた、時代の証人とも称すべき写本の一つである。
(教授 海野圭介)
読売新聞多摩版2021年11月10日掲載記事より