『古今集註』
(こきんしゅうちゅう)
日本の古典劇を代表する能の演目には、平安時代に成立した古典作品に素材を得たものが多い。世阿弥(1363~1443年)による「井筒」は『伊勢物語』、古作とされる「女郎花」は『古今集』、世阿弥による改作とされる「葵上」は『源氏物語』に取材している。能の作者達は、古典を学び、その言葉を用いて詞章を綴ったが、彼らが読んでいたのは、現在の我々と同じく注釈付きの本だったらしい。「注釈」と言えば、語義や類例を示したり、時代背景を説明したりするものだと思われるかもしれないが、鎌倉時代から室町時代にかけて著された注釈書には、とうてい歴史的事実とは考えられない逸話が堂々と記されていることがある。当館所蔵の毘沙門堂本『古今集註』も、そうしたものの一つである。
例えば、『古今集』仮名序には、人の心を種としてそれが言葉となって表現されるのが和歌であることを述べた後に、「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの」すべてが歌を詠むと記されるが、この部分には次のような注釈が付されている。<鶯や蛙が歌を詠む事には証拠がある。『日本記』には次のように記されている。ある大和国の僧には深く思いをかけた弟子がいたが、亡くなってしまった。三年が過ぎた頃、僧の家に鶯がやって来て鳴いたので、その声をよく聞いてみると「初陽毎朝来不相還本誓」と聞こえた。それを書き付けてみると、「初春の朝ごとには来たれども相かへらざる本の誓いを」という和歌になっていたという>
「日本記」に記されるとあるが、もちろん、『日本書紀』にはこのような話は載らない。そもそも、『古今集』では、鶯や蛙の声を聞けば、「生きとし生けるもの」が和歌を詠むとするのだから、鶯や蛙までもが和歌を詠むことを取り立てて主張しているのではない。荒唐無稽な説ではあるが、この話は「白楽天」という能の中で、日本の知力を試せという命を受けてやって来た中国の詩人・白楽天に対した住吉明神が、日本では鶯や蛙までもが歌を詠むのだと述べる部分の典拠となっている。
中世に生きた人々は、現在の我々とは違った知識を学び、異なる教養を持っていた。数多く残された注釈書の類は、そうした私たちの常識からはかけ離れた中世世界の常識の存在を教えてくれる。
(教授 海野圭介)
読売新聞多摩版2020年5月20日掲載記事より