大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2020/6/24

『武蔵国五日市村文書』

(むさしのくにいつかいちむらもんじょ)

 多摩川や秋川の(あゆ)漁は古く、江戸時代前半には江戸城へ上納され、それらは「御菜(ごさい)鮎」と称された。「菜」とはおかずの意味であり、徳川将軍家が食するものを指す。8代将軍・徳川吉宗の時代、享保7年(1722)、「御菜鮎」上納が廃されて、「上ケ(あげ)鮎御用」というシステムに改められた。これは江戸城へ納める鮎の漁を請け負った村々が、鮎を納めた際に代金を受け取るといったものである。そのため、鮎を納められなかったら、お役人様からどんな大目玉を食らうか、村人たちは戦々恐々としていたに違いない。 今回の古文書は五日市村(現在のあきる野市五日市)に伝えられたもので、のちに五日市村を離れて、祭魚洞(さいぎょどう)文庫に渡り、現在では国文学研究資料で所蔵している。祭魚洞文庫とは、渋沢栄一の孫である渋沢敬三のコレクション。国文学研究資料館には、敬三による様々な歴史資料を所蔵しているが、五日市村文書もそのひとつだ。 カット写真で紹介しているのは、文政元年(1818年)9月、五日市村の紺屋(藍染を生業とする人)であった彦次郎・喜代松たちが役所に提出した『差出申御請證文之事(さしだしもうすおうけしょうもんのこと)』。

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 「このたび秋川にて、江戸城御用の鮎を生け捕りしているところ、紺屋たちが染める際に灰汁(あく)で洗い物をして鮎が死んでしまいましては、御用の差し支えに成るので、上流で洗い物をしてはならないとの旨、厳しく仰せ渡されて、承知致しました。この上は上流で洗い物など決してしません。万一違反したならどのような罰を受けても構いません」と記されている。おそらく、紺屋の人びとは上流で染物をしていたのであろう。漁師たちが大慌てで役所に差し止めを願い出たものと思われる。8月以降は御用以外の漁が禁止されており、特に9月は20センチにまで成長した鮎が産卵のために河口へ下るため、子持ちである「下り鮎」と称されて御用に適していた。紺屋も生業とはいえ、すっかり鮎漁のことを忘れていたのか、この証文を提出し、ひとまず一件落着したようだ。くれぐれも川下のことを注意しなくてはいけない。

 

(准教授 西村慎太郎) 


読売新聞多摩版2020年6月10日掲載記事より

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