『武蔵国五日市村文書』
(むさしのくにいつかいちむらもんじょ)
多摩川や秋川の鮎漁は古く、江戸時代前半には江戸城へ上納され、それらは「御菜鮎」と称された。「菜」とはおかずの意味であり、徳川将軍家が食するものを指す。8代将軍・徳川吉宗の時代、享保7年(1722)、「御菜鮎」上納が廃されて、「上ケ鮎御用」というシステムに改められた。これは江戸城へ納める鮎の漁を請け負った村々が、鮎を納めた際に代金を受け取るといったものである。そのため、鮎を納められなかったら、お役人様からどんな大目玉を食らうか、村人たちは戦々恐々としていたに違いない。 今回の古文書は五日市村(現在のあきる野市五日市)に伝えられたもので、のちに五日市村を離れて、祭魚洞文庫に渡り、現在では国文学研究資料で所蔵している。祭魚洞文庫とは、渋沢栄一の孫である渋沢敬三のコレクション。国文学研究資料館には、敬三による様々な歴史資料を所蔵しているが、五日市村文書もそのひとつだ。 カット写真で紹介しているのは、文政元年(1818年)9月、五日市村の紺屋(藍染を生業とする人)であった彦次郎・喜代松たちが役所に提出した『差出申御請證文之事』。
「このたび秋川にて、江戸城御用の鮎を生け捕りしているところ、紺屋たちが染める際に灰汁で洗い物をして鮎が死んでしまいましては、御用の差し支えに成るので、上流で洗い物をしてはならないとの旨、厳しく仰せ渡されて、承知致しました。この上は上流で洗い物など決してしません。万一違反したならどのような罰を受けても構いません」と記されている。おそらく、紺屋の人びとは上流で染物をしていたのであろう。漁師たちが大慌てで役所に差し止めを願い出たものと思われる。8月以降は御用以外の漁が禁止されており、特に9月は20センチにまで成長した鮎が産卵のために河口へ下るため、子持ちである「下り鮎」と称されて御用に適していた。紺屋も生業とはいえ、すっかり鮎漁のことを忘れていたのか、この証文を提出し、ひとまず一件落着したようだ。くれぐれも川下のことを注意しなくてはいけない。
(准教授 西村慎太郎)
読売新聞多摩版2020年6月10日掲載記事より