正宗白鳥著『姉の夢』原稿
(まさむねはくちょうちょ 『あねのゆめ』げんこう)
大正5年(1916年)1月、雑誌「新小説」に掲載された、正宗白鳥『姉の夢』の原稿。白鳥(1879~1962年)は田山花袋(1872~1930年)や徳田秋声(1872~1943年)とならぶ自然主義文学の代表作家であり、批評家としても優れた評論を残している。国文学研究資料館では現在、近代の自筆資料に関する研究事業を進めており、白鳥の作品は他に『ある病室』や『女を知る』の草稿を収蔵している。
自然主義や私小説というと、身辺の出来事をこまごまと書くリアリズム文学のイメージがあるかもしれない。しかし早稲田で英文学を徹底的に学び、古典学者・正宗敦夫の兄でもあった白鳥は、日常のなかにひそむ狂気を言葉でえぐり出していく、言葉えらびの達人だった。
『姉の夢』は同居中の姉妹がしだいに気づまりな関係になっていくさまを描く小説だが、途中で妹が、姉に殺されかける夢を見る場面がある。 刃を持って襲いかかる姉の言葉の、夢のなかでの言葉の聞こえかたを、白鳥はいったん妹の「耳に入らなかった」と書きかけて「聞取れなかった」と訂正した。姉の言葉を外国語にも似た理解不能な言語として示すことで、姉妹のあいだの、他人以上に冷たい関係を透かしみせる仕掛けである。
推敲は、姉妹の「田舎訛り」や妹が書く「英語」交じりの手紙など、二人を取りまく言葉に関する部分にもある。白鳥はごく普通に話しているように見える姉妹の言葉を、近代という言葉の激動期のなかに慎重に配置していた。見かけ上は言葉が通じているようでも、コミュニケーションが成立しているとはかぎらない――原稿のあちこちにある修訂は、そうした近代の<言葉の不安>を書く作家としての白鳥の姿を教えてくれるのである。
(准教授 多田 蔵人)
読売新聞多摩版2022年5月18日掲載記事より