ジュールス・ベルネ著、井上勤訳『海底紀行 六万英里』
(ジュールス・ベルネちょ いのうえつとむやく 『かいていきこう ろくまんえいり』)
フランス出身で空想科学小説の書き手としてジュール・ベルヌ(英語読みでジュールス・ベルネ、1828~1905年)の『八十日間世界一周』や『十五少年漂流記』は明治の日本でも大人気で、今回ご紹介する『海底紀行 六万英里』は、現在、『海底二万里』というタイトルで知られる作品である。
謎の潜水艦ノーチラス号で世界中の海をめぐるネモ船長の物語は、子ども向け読み物やアニメ『ふしぎの海のナディア』など様々なかたちで日本に広まっているが、明治17年(1884年)のこの本では漢字カタカナ交じり文で翻訳された。
ネモ船長は、潜水艦の活動は自分の私欲のためではない、地球上に「幾多不幸ノ人民或ヒハ圧抑サレタル人種其ノ他憫レムベキ」人々がいることを自分は知っているのだと「弁舌爽ヤカ」に語る。 これを聞いた書き手は、ネモは「塗炭ニ苦シム」人を救う志をもった「慷慨悲憤ノ志士」なのだと評している。 まるで自由民権運動の壮士たちのようなこの対話の訳しかたには、井上勤の訳文の苦心がのぞいている。
人類に対してなにか大きな復讐心を秘めているらしいネモ船長の「志」を伝えるにあたって、井上は潜水艦を「獄」「鉄牢」と訳した。 それなのに、というべきだろうか、ノーチラス号に収められた絵画や書物のコレクションは、博覧会さながらのまばゆさで訳しだされている。 すでに世界の富を手にしながらあえて牢獄のような場所に閉じこもった船長が「志士」とされるとき、彼が案内する深海生物や沈没船の光景が伝えるメッセージもまた、わずかにニュアンスを変えることになるだろう。
この地球上にはたしかにあるはずなのに見えていない世界があり、救うべき「幾多不幸ノ人民」が存在する――明治のネモ船長は、日本という「鉄牢」から飛びだしたばかりの明治の日本人たちに見るべきものを示す人物として、立ちあらわれていたのである。
(准教授 多田 蔵人)
読売新聞多摩版2022年5月11日掲載記事より