大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/6/ 2

セキスピアー原著 井上勤訳『幽霊』

(セキスピアーげんちょ いのうえつとむやく 『ゆうれい』)

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 「()れは御身(おんみ)(ちち)にして、(すなわ)前王(ぜんおう)「ハムレツト」なり、()非命(ひめい)()したる最期(さいご)(さま)を、イデ詳細(つまびらか)説聞(とききか)せん」 ――明治21年(1888年)に出版された井上勤訳『幽霊』で、父王が「ハムレット太子」に自分が殺されたいきさつを語りはじめる場面である。  
 シェイクスピア(『幽霊』ではセキスピアー)の『ハムレット』は、叔父のクローディアスに(父王ハムレット)を殺されたハムレット王子の物語。 近代の日本にもすぐ伝わり、坪内逍遙(1859~1935年)が興した演劇運動によって近代劇の最重要演目になるのだけれども、今回ご紹介する本には、演劇とはちょっと異なる趣がある。
 訳者の井上勤(1850~1928年)は『ハムレット』原典ではなく、チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』から本書を訳した。 明治初期としてはかなり忠実な翻訳だが、たとえば最初に引いた父が語る場面は、ラムの原書では「彼(spirit)は沈黙を破って......と語った」と三人称で書かれている。 読者の前で朗々と過去を語り聞かせる父王の姿は、まるで曲亭馬琴『南総里見八犬伝』に登場する英雄たちのようだ。 ハムレットの方も亡霊の言葉にとらわれる(原文haunted)というより、むしろ「不孝(ふこう)()め」を逃れ、積極的に敵討ちを行う正義漢のようにふるまうのである。
 表紙に描かれた髑髏(どくろ)の図は、幕末以来、戦場で志を果たさず死んだ男たちの物語によく用いられた意匠である。 この本の言葉づかいは、江戸時代に中国小説の影響を受けて成立した「読本(よみほん)」の形式に近い。 江戸と近代のはざまにある『ハムレット』を、当館の「近代書誌・近代画像データベース」にて公開予定のデジタル画像で、ぜひともお楽しみいただきたいと思う。 

(准教授 多田 蔵人)

読売新聞多摩版2022年4月27日掲載記事より

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