大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2019/10/11

『玉川猟師仲間定書』

(たまがわ りょうしなかま さだめがき)

 江戸時代、多摩川・秋川流域で行われた毎年秋の一大イベントは、「上ケ鮎あげあゆ御用」と呼ばれる江戸城への鮎上納であった。この御用は、多摩川の名産である鮎を漁獲して江戸城へと運び、将軍以下の食膳に供するというもので、子持ち鮎を好んだ8代将軍徳川吉宗の命により延享2年(1745年)から始まったという。
 上ケ鮎御用では、上納を希望する上~中流の50か村ほどが御用請村に指定され、御用漁期間内の優先的漁業権が与えられた。江戸城への納入は、8月末から9月に4~5回に分けて行われ、年間の上納数は1100~1300匹に達した。
 この古文書は、国文研が所蔵する祭魚洞文庫旧蔵水産史料「武蔵国多摩郡五日市村文書」の中の一点で、天保13年(1842年)8月に村内の3組の漁師仲間23名が鮎の漁業方法などを取り決めたものである。
 冒頭で、上ケ鮎御用に際して権威がましい行為をしないこと、仲間の者は鮎の「捕生」(漁獲して生簀いけすかしておくこと)に出精することなど、幕府の御用を滞りなく勤めるように定めている。このほか、年番の組はシラ(川中で鮎を追い込んで漁獲する装置)の確認や生簀の見回りをきちんと行うこと、「さぐり釣針」は鮎に傷がつくので夏の土用以降は使用を禁止することなど、具体的な漁法についても細かく申し合わせている。
 各村で集められた鮎は、羽村・拝島・柴崎・布田五宿など、御用請村の代表である世話役がいる村へ送られ、ここで傷の有無や規定の大きさ(目の下から計って12~18センチ)であるかを見て選別された。上納用となった鮎は鮎篭に入れられ、指定日前日の夕方に馬背に積み、青梅往還・五日市往還・甲州道中などを利用して、翌日の早朝までに江戸城へと納入した。上納完了後には、幕府から御用請村へ鮎代と鮎篭代などが支給された。

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鮎の漁業方法などを取り決めた「玉川猟師仲間定書」(一部)



(准教授・太田尚宏)


読売新聞多摩版2019年10月2日掲載記事より

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