『御用象本坂通之節御触書之写』
(ごようぞう ほんさかどおりのせつ おふれがきのうつし)
享保13年(1728年)6月、8代将軍徳川吉宗の上覧に供する目的で、中国商人の手により広南国(ベトナム)から2頭の象が長崎に渡来した。このうちメス象は長崎にて病死してしまうが、残ったオス象は翌14年3月13日に長崎を出発、2か月余をかけて山陽道・東海道を通行し、5月25日に江戸へ到着、27日には江戸城で吉宗の上覧をうけた。
国文研所蔵の遠江国引佐郡気賀宿中村家文書には、このとき通行した御用象に関する記録が残されている。
気賀宿は、浜名湖を迂回するように東海道の御油宿(愛知県豊川市)と見附宿(静岡県磐田市)の間を結ぶ本坂通り(姫街道)の宿場である。幕府は御用象の輸送にあたり、船を使わず街道を歩かせる方法をとった。浜名湖を渡る今切の渡船場についても、本坂通りへと回り道するルートが選ばれた。
この古文書は、幕府から出された御用象に関する情報をまとめたもので、写真の箇所は大坂に到着した象の様子や事前準備の心得を通行先の宿場へ伝えた部分である。
要約すると、①象はふだんの様子と違うことや犬猫の声を嫌うので、通行当日は犬猫を一切差し置かなかった②油屋・鍛冶屋や家作普請など、大きな音が出る作業は一切差し止めた③餌となる饅頭は、米饅頭ではなく麦饅頭を80個ほど用意し、このうち20~30個は餡入りの饅頭とした、④笹の葉は、どんな種類の笹でも構わない。
⑤いたぶ(イヌビワ)・かづら(蔓草)は以前に出された書付の通りに用意しなくてはならないが、姫草は少し用意すれば問題ない⑥大唐米は4升ほど炊いておき、象使いへ渡した⑦市中の人々は簾を下げて見物し、象の通行の妨げとなるものは門や家であっても撤去した⑧象の餌を置くための莚が3~4枚ほど必要である、といった内容が記されている。
前代未聞の御用象の通行のために、幕府や街道筋の宿場が盛んに情報をやり取りしていたことがわかる興味深い記録である。
(准教授・太田尚宏)
読売新聞多摩版2019年9月25日掲載記事より