大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2019/10/25

『解体新書』

(かいたいしんしょ)

 近代のさまざまな達成と引き換えに、私たちが失ってきたものも多い。例えば「身体性」。漱石の『こころ』は、なぜ「からだ」ではないのか――。文学や古典の研究においても、従来は「何が、どのように書かれてあるか」の解明に必死で、それが書かれているモノ(本や雑誌そのもの)への関心は相対的に低かったように思われる。
 特に江戸時代の場合は、人間だけでなく書物にも〈身分〉があった。例えば本の大きさ(書型しょけい)。漢詩文や和歌などの伝統的な雅文学がぶんがく大本おおほん(縦27センチ前後)で出版されることが多いのに対して、新興の俗文学ぞくぶんがくである黄表紙きびょうし洒落本しゃれぼんはそれぞれ中本ちゅうほん(縦18センチ前後)や小本こほん(縦15センチ前後)で出版された。書型は中身を厳然と規定していたのである。あるいは表記や装訂そうていも、深く中身と関わっていた。
 「昔の人の学問とふものは「今」を知ることではなくて、「過去」を知ることだった」とは谷崎潤一郎の言だが(「直木君の歴史小説について」『摂陽せつよう随筆』1935年5月)、近年はいっそう「役に立つかどうか」というモノサシのみが重視されており、古典の軽視が甚だしい。
 しかしながら、すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなるのであり、過去の叡智えいちを結集した古典こそ、混迷を深める現代を生き抜くための指針しるべにほかならない。江戸時代に杉田玄白らが刊行した『解体新書』を挙げるまでもなく、古典は文学だけでなくすべての領域に存在するのであり、世界は書物の中にあったのだ。

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教科書でおなじみの『解体新書』(1774刊)


 国文学研究資料館では2019年10月15日から、企画展示「本のかたち 本のこころ」が始まった。古典籍の「かたち」を感受しながら、そこに込められた著者・製作者の「こころ」に思いをせていただく、ちょっと風変わりな展示である。壮麗な絵巻やいぶし銀の絵入り刊本、あるいは他に伝存しない「一本書いっぽんしょ」や教科書でなじみのある古典籍たちが、皆さまをそっとお待ちしている。企画展示は12月14日までで入場無料。原本の持つホンモノのちからを身体深くに留め置いて欲しい。
                                (教授・研究主幹 神作かんさく研一)

★企画展示「本のかたち 本のこころ」会期は2019年12月14日まで。休室日は日曜・祝日・11月13日。10時から16時30分(入室は16時まで)。詳細はこちら


読売新聞多摩版2019年10月16日掲載記事より

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