大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2021/2/25

鈴木其一筆『伊勢物語芥川之図』

(いせものがたり あくたがわのず)

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 平安の世に絶世の美男子として聞こえた在原業平は、恋の成就を決して望むことのできない高貴な女性に胸を焦がしていた。ある晩、業平は女性を密かにさらい出し、芥川のほとりをひた走る。しかし、あいにくの雷雨を避けて夜を明かすうち、女性の姿は虚空へと消えてしまう。残された男の絶唱とともに、その伝説は『伊勢物語』に書き留められた。
 時は移ろい、いにしえの恋の物語は格好の画題となって、江戸時代の絵師達を惹きつけていた。江戸琳派(りんぱ)の旗手として近年脚光を浴びる鈴木其一(きいつ)(1796~1858)はその一人で、失意のなか東国へ下る業平の馬上姿など、複数の題材を『伊勢物語』に求めている。そんな彼が「噲々(かいかい)其一」と名乗った画風形成期に描いたのが、見目麗しい男が女性を背中に負い、川縁をはだしのままに駆け抜ける、「芥川」の段の逃避行だった。
 其一の死から1世紀も経ずに太平洋戦争の足音が聞こえ始めた頃、その絵はある能楽師の手にあった。のちに空襲で焼失する東京下谷区西町の舞台で、「芥川」に取材した曲目「雲林院」の囃子(はやし)方(かた)(器楽演者)を勤めた彼は、観世流の分家六代当主、観世華雪(1884~1959)に記念の一筆を依頼する。華雪は其一の描いた業平の傍らに「花の散りつもる芥川をうち渡り」と「雲林院」の一節を書き添え、時代を越えた共作が生まれた。
 戦火をくぐったこの共作は、やがて希代の『伊勢物語』コレクターである芦澤新二氏(1924~89)と美佐子夫人の目に留まり、誕生日や結婚記念日に写本を贈り合うほど『伊勢物語』を慈(いつく)しんだ夫妻の下、長く愛蔵された。そして2016年、夫妻の1000点を超える蔵書「鉄心斎文庫」は、夫人の厚意により寄贈され当館の所蔵となった。業平の伝説に端を発し、『伊勢物語』に魅せられた人々の情念を乗せた『伊勢物語芥川之図』は今、全世界に向け開かれて新たな出会いを待っている。

(助教 岡田貴憲) 


読売新聞多摩版2021年1月20日掲載記事より

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