後ヶ谷村杉本家文書「村鑑明細書上帳」
江戸時代の古文書の中に、村明細帳と総称されるものがある。村の生産高、年貢の規模、人口、寺社、橋、ため池、河川、海、市場、古墳、幕府直轄の山林、鉄砲の保有数などを書き記した帳簿である。主に将軍の代替わりや領主の交代の際に作成されて、領主に提出されるとともに、村でも複製を保管した。
当館にも様々な村の村明細帳が遺されており、「収蔵歴史アーカイブズデータベース」で「村明細」などと検索してみてもらいたいが、今回取り上げるのは多摩郡後ヶ谷村(現在の東大和市狭山)杉本家文書のひとつである天保12年(1841年)3月の村明細帳だ。後ヶ谷村は、「石川の谷」を中心とした「北の谷」と、「回り田谷」・「谷ツ入」を中心とした「南の谷」に分かれていた村で、杉本家は中世の地侍の系譜を引く杉本勘左衛門家で、「北の谷」に居住していた。
では、後ヶ谷村の村明細帳を見てみよう。表紙には「村鑑明細書上帳」と記されている。当時の後ヶ谷村には48軒あり、民家が45軒、寺が1ヶ寺、堂が2宇。村内には尾張藩の鷹場(鷹狩を行う場所)があった。農業用水として川があったが十分ではないので、4ヶ所のため池が活用されている。また、「名所狭山」とあるように、「柴山はすべて小さい山で昔の和歌に詠まれた「狭山」でございます」と記されている。特徴的な生業として、「村の木を伐って炭や薪としたり、当村だけではなく青梅・五日市・飯能の炭市で買い求めて、江戸へ売ったりしています」と見え、炭仲買を生業のひとつとしている村人も確認できる。村明細帳は現在の市勢要覧の類であり、当時の村の状況が分かる。柴の生えた「狭山」や薪や炭のための林、鷹狩に来るお殿様の行列や鷹が舞う様子も想像させられる。
しかし、現在ではそれらが全く分からない。なぜなら、後ヶ谷村は東京の水瓶として造成した村山貯水池の湖底に沈んでしまったためだ。後ヶ谷村の村明細帳は78点遺されているので、村明細帳から湖底の村の景観を思い起こしてもらいたい。
(教授 西村慎太郎)
読売新聞多摩版2023年4月5日掲載記事より