『武蔵国多摩郡五日市村文書』
(むさしのくにたまぐんいつかいちむらもんじょ)
酒は飲んでも飲まれるな、この一文は「酒は飲むべし飲むべからず」として江戸時代後期には知られた慣用句である。 実際に酒に飲まれてしまって、乱闘騒ぎになる話は地域の古文書にたくさん遺されている。 当館蔵の武蔵国多摩郡五日市村文書の中の「乍恐以書付奉願上候」(恐れ乍ら書付を以って願い上げ奉りそうろう)はまさに五日市(現在のあきる野市五日市)で起きた乱闘騒ぎの一幕が描かれている。乱闘騒ぎの竹次郎と善助たちから代官所に宛てられたこの古文書を見てみよう。
文政3年(1820年)8月1日午後、秋川の川縁を酒に酔った竹次郎がブラブラ歩いていると、川で洗濯をしていた「しげ」という女性に出会った。 竹次郎と「しげ」が話しているとなぜか言い争いとなり、そこへ同じ村の善助ほか6人の者たちがやって来て、竹次郎を「打擲」した。 打擲とは、いわゆる「ボコボコ」にすることだ。ケガをした竹次郎はこのことを代官所に訴え出たために事件が大きくなった。 一方、善助たちは「ボコボコ」になどしていないと反論。双方の言い分が食い違っていたため、村役人や他の村の役人たちが竹次郎や善助たちを呼んで事実を確認した。 そうしたところ、竹次郎も善助たちもお互い酔っていて、口論になった中で竹次郎が堀に落ちてケガをした、という結論に至った。 そこで代官所には双方の「酒狂」の上の出来事なので、竹次郎の訴えは取り下げたいということで、この一件は落着している。
実際のところはどうなのであろう。本当に竹次郎は「ボコボコ」にされず、堀に落ちただけだったのであろうか。 時間も金も労力もかかり、村役人自身の管理不行き届きを代官所から指摘されてしまう恐れもあるので、村社会では「内済」=示談をすることが推奨された。 ここでも善助たちの「傷害罪」を不問にして、事件を大きくしないようにしたというのが実情であろう。
いずれにしても「酒狂」の上の乱闘などならないよう、「酒は飲むべし飲むべからず」。
(教授 西村慎太郎)
読売新聞多摩版2021年12月1日掲載記事より