大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2023/6/12

『若草源氏物語』

(わかくさげんじものがたり)

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 『源氏物語』の最初期の俗語(日常語)訳は、元禄16年(1703年)刊の『風流(ふうりゅう)源氏物語』をはじめ、宝永4年(1707年)以降『若草源氏物語』『雛鶴(ひなつる)源氏物語』『紅白源氏物語』『俗解(ぞくげ)源氏物語』と次々に出て、人気を博した。
 『若草』以下、4作品の翻訳と挿絵を手がけたのは、気鋭の浮世絵師・奥村政信(まさのぶ)梅翁(ばいおう))である。版元は日本橋の書肆(しょし)・山口屋権兵衛。序文には「ちいさき娘」とその友達向けに、難しい『源氏物語』の文章を「いまの世のはやりことば」に引きうつし、原作にはないギャグなども入れて、ためになり、かつ楽しい読み物にアレンジした新機軸の由が述べられている。
 なるほど愉快と思われるのは、たとえば夕顔巻である。廃院で秘密の逢瀬を楽しんでいた光源氏はもののけ=画面左=に襲われ、恋人(夕顔)=画面右端=の命を取られてしまう。この怪奇的展開は、彼を慕う別の女性の暗い情念を匂わせつつ、紫式部の原作でも異様な緊迫感をもって語られている。
 ところが政信の俗語訳では、ここに野次馬風の妖怪たちが突如闖入(ちんにゅう)してきて、一気にドタバタ感が増す。叙述はさらに、多くの色恋にうつつを抜かす自らの「悪性(あくしょう)」に対する光源氏の罪意識へと続くが、これも原作よりはやや踏み込んだ内容となっている。
 挿絵の内、屏風(びょうぶ)の向こうに現れた一つ目入道と笑い女は、妖怪ながらも平和なおしどり夫婦のようである。色好みの貴公子の修羅場を見物する彼らのまなざしには、好奇といささかの揶揄(やゆ)の色がある。それは近世の人々の、古典作品に対するある種の合理的な向き合い方を反映しているようで、はっとさせられる。
 当館所蔵の本書は、『若草』と『紅白』を合わせて『若艸(わかくさ)源氏』と題し、元文(げんぶん)3年(1738年)に大坂の書肆・伊丹屋新七により改めて刷られたものである(他に『雛鶴』と『俗解』を合わせた『雛鶴源氏』もある)。なお全篇(ぜんぺん)翻刻(ほんこく)・注解および、今回ご紹介の挿絵を含めた内容に関する諸論考は『源氏物語の近世』(レベッカ・クレメンツ/新美哲彦(あきひこ)編、勉誠出版。底本は早大本)に収載されている。ご一読をおすすめしたい。

(准教授 中西智子)


読売新聞多摩版2023年5月10日掲載記事より

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