大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2023/6/ 6

「舞の本」

(まいのほん)

1000kume3.png

 ある時は容顔美麗な貴公子、またある時は奇襲攻撃を得意とする勇猛な武者―その名は源九郎(みなもとのくろう) 判官(ほうがん) 義経(よしつね)。「判官(ほうがん) 贔屓(びいき)」の言葉とともに記憶されてきた日本の英雄である。昨年の大河ドラマに登場したこともあり、その数奇な運命が世間の注目を集めたことは記憶に新しい。しかし、正式な記録における義経は『吾妻(あづま) (かがみ)』や九条(くじょう) 兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』にみえるわずかな記事が全てであり、彼の生きざまは大いなる謎に包まれているのである。
 空白に満ちた彼の生涯を彩るのは、「判官物(ほうがんもの)」と総称される文芸や芸能の諸作品である。中でも人形浄瑠璃や歌舞伎に多大なる影響を与えたのが、15世紀~17世紀に流行した幸若(こうわか) 舞曲(ぶきょく)の判官物作品である。幸若舞曲とは鼓を伴奏に謡い舞う語り物芸能のことで、軍記物(ぐんきもの)を題材とした長編の物語が多くを占める。戦国武将達に愛好されたこの語り物は、聴くだけではなく読み物としても普及し、江戸時代に入ると36演目が挿絵入りの「舞の本」という叢書(そうしょ)として出版され、版を重ねた。さらに舞の本を参考にした絵巻や奈良絵本などの肉筆の絵画作品も大量に作られ、絵画制作にも影響を与えた。このように舞の本は江戸時代の書物文化に欠くことのできないジャンルであったはずだが、36冊もの冊数を(そろ)えるのは当館が唯一である。
 舞の本には、源義経の幼少期から元服までを描く『(ふえ)(まき)』『未来記(みらいき)』『鞍馬出(くらまいで)』『烏帽子(えぼし) (おり)』、兄の頼朝に疎まれ死への逃避行を描く『腰越(こしごえ)』『堀河(ほりかわ) 夜討(ようち)』『四国落(しこくおち)』『富樫(とがし)』『笈捜(おいさがし)』『清重(きよしげ)』『八島(やしま)』、義経主従の壮絶な死を描く『高館(たかだち)』といった判官物作品が含まれている。中でも『高館』に描かれた弁慶と義経が交わす最期の(さかずき)、そして、今回掲載した図版に描かれた弁慶の立ち往生は名場面の一つといえよう。舞の本を通じて、知られざる源義経の生涯を知ることができる。

(特任助教・人文知コミュニケーター 粂汐里)


読売新聞多摩版2023年5月3日掲載記事より

ページトップ