「舞の本」
(まいのほん)
ある時は容顔美麗な貴公子、またある時は奇襲攻撃を得意とする勇猛な武者―その名は源九郎 判官 義経。「判官 贔屓」の言葉とともに記憶されてきた日本の英雄である。昨年の大河ドラマに登場したこともあり、その数奇な運命が世間の注目を集めたことは記憶に新しい。しかし、正式な記録における義経は『吾妻 鏡』や九条 兼実の日記『玉葉』にみえるわずかな記事が全てであり、彼の生きざまは大いなる謎に包まれているのである。
空白に満ちた彼の生涯を彩るのは、「判官物」と総称される文芸や芸能の諸作品である。中でも人形浄瑠璃や歌舞伎に多大なる影響を与えたのが、15世紀~17世紀に流行した幸若 舞曲の判官物作品である。幸若舞曲とは鼓を伴奏に謡い舞う語り物芸能のことで、軍記物を題材とした長編の物語が多くを占める。戦国武将達に愛好されたこの語り物は、聴くだけではなく読み物としても普及し、江戸時代に入ると36演目が挿絵入りの「舞の本」という叢書として出版され、版を重ねた。さらに舞の本を参考にした絵巻や奈良絵本などの肉筆の絵画作品も大量に作られ、絵画制作にも影響を与えた。このように舞の本は江戸時代の書物文化に欠くことのできないジャンルであったはずだが、36冊もの冊数を揃えるのは当館が唯一である。
舞の本には、源義経の幼少期から元服までを描く『笛の巻』『未来記』『鞍馬出』『烏帽子 折』、兄の頼朝に疎まれ死への逃避行を描く『腰越』『堀河 夜討』『四国落』『富樫』『笈捜』『清重』『八島』、義経主従の壮絶な死を描く『高館』といった判官物作品が含まれている。中でも『高館』に描かれた弁慶と義経が交わす最期の盃、そして、今回掲載した図版に描かれた弁慶の立ち往生は名場面の一つといえよう。舞の本を通じて、知られざる源義経の生涯を知ることができる。
(特任助教・人文知コミュニケーター 粂汐里)
読売新聞多摩版2023年5月3日掲載記事より