源氏物語絵屏風
(げんじものがたりえびょうぶ)
「すずめのこを、いぬきがにがしつる!」後に光源氏の生涯の伴侶となる紫の上は、その初登場シーンで、祖母の尼君の部屋に駆け込んでくる。飼っていた雀の雛を、遊び相手の「いぬき」が逃がしてしまったと言うのである。年齢は十ばかり、髪は扇を広げたように豊かで美しく、泣いてこすった顔は真っ赤になっている。とんだ悲劇に見舞われた幼い姫君の憤慨は、作中随一の愛くるしさを持つと言ってよいだろう。
若紫巻のこの場面は、源氏絵の伝統の中で繰り返し絵画化されてきた。立ち姿の乳母を中央に大きく描き、母屋に姫君と尼君、さらに画面の端に垣間見する光源氏を配するというのが定番の構図である。有名な京都国立博物館蔵『源氏物語画帖』をはじめとする土佐派の図様では、姫君は飛んでゆく雀の方へ手を差しのべた上品な姿で描かれることが多い。 そうした中、今回ご紹介する当館蔵『源氏物語絵屏風』(12枚の物語絵と、親王や公家方の手になる詞書を貼り交ぜてある)では、姫君がべそをかきながら尼君と向かい合う姿が印象的である。心配顔の尼君は脇息にもたれ、既に病が重篤であることが見て取れる。
このように作中人物を親しみやすい姿で描く趣向は、本屏風の他の場面絵にも見出される。たとえば末摘花巻では、鼻の赤い女君の絵をいたずら描きする光源氏の隣で、紫の上がくすくす笑いをしている。この絵は岩波文庫版『源氏物語(一)』の表紙にも用いられているが、情景の選択としてはかなり世俗的なものと見てよいだろう。 本屏風が制作された近世初期から中期にかけては、いわゆる"古典"が公家の特権的な圏域から解き放たれ、武家や富裕な町人層などにも広く受容されるようになってゆく、その先駆けの時代であった。彼らののびやかな感性にふれて、絵画・文学・演劇・工芸などの各方面で、"古典"に新たな風を入れた豊かな文化が花開いたのである。
カラー図版は当館ホームページから自由に見ることができる。紫の上の表情や光源氏の絵の様子(鼻先もポッチリと赤く塗ってある)など、ぜひお手元で拡大してお楽しみいただきたい。
(准教授 中西智子)
読売新聞多摩版2023年1月18日掲載記事より