大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/8/23

源氏香之圖

(げんじこうのず)

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 室町時代以降の武家社会において、香りの文化は茶道や華道などと共に、芸道として洗練されていった。そこには和歌や漢詩文、また物語によって醸成された「ことば」のエッセンスが、しばしば織り込まれていた。参集した人々はみずからの五感を研ぎ澄ませ、現実を離れた「心」の世界を逍遙(しょうよう)することとなる。それは激動の乱世にあって、いかに貴重で甘美な融合のひとときであっただろうか。
 やがて江戸時代には組香(くみこう)源氏(げんじ)(こう)」が完成した。これは五つの香の組み合わせを当てる遊戯で、参加者は一つ一つの香りを聞きながら、手元で五本の縦線のバリエーションを描いてゆく。その()()(がく)的で(しょう)(しゃ)な図様は現代でも人気が高く、必ずしも「源氏香」で遊んだ経験がなくとも、帯や和菓子の意匠として目にしたことのある方も多いだろう。
 写真の資料は、図様と『源氏物語』の巻名とを照合するための小冊子、『源氏(げんじ)(こう)之圖(のず)』である(当館所蔵、江戸中期頃の作品か)。使用されていた当時のまま、扱いやすい(おり)(じょう)(厚紙を折り畳んだ本)の形を残し、金地に貼り込まれた挿絵も色鮮やかな佳品である。
 実は、「源氏香」の図様と物語との対応関係については、今のところよく分かっていない。しかしその分、謎解きの余地が残されているとも言える。たとえば、「梅枝(うめがえ)」巻の図様(写真右上)は、五つの香のうち、二番目だけが別種のパターンを示している。一方、物語の「梅枝」巻には、(ひかる)源氏(げんじ)とかかわりの深い女性達がそれぞれに香を調合し、その出来栄えを競い合うという華やかな場面がある。
 一本だけ外れた短い線を眺めていると、女性達に取り囲まれた光源氏の姿のようにも見えてくる(この線を娘の明石姫君(あかしのひめぎみ)と見る解釈もある)。もしかして『源氏物語』を真に支えているのは女性達なのではないかしら......。いやいや、やっぱり光源氏あってこその百花(りょう)(らん)ではないかしら......。
 「源氏香」の図様を間に置き、そんな風に気ままに盛り上がれる仲間を見つけることも、古典の楽しみの一つであろう。

(准教授 中西智子)

読売新聞多摩版2022年8月3日掲載記事より

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