大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2022/8/10

絵本故事談

(えほんこじだん)

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 かつて読んで場面だけが心に残り、書名を思い出せない本がある。学校の図書室、病院の待合室にあった表紙が汚れた児童文学や偉人伝は、世界の歴史、様々な物語に出会わせてくれた。もう一度読み返したいと思うが、多くは書名も作者名も覚えていない。本が持っている様々な情報、書誌は、その本に再び出会うためのものでもある。それを実感するのは、その本の書誌が記憶から失われたときである。そのため記録が重要になる。
 あるとき新日本古典籍総合データベースの「画像タグから探す」を検索して、江戸時代にぼろぼろになるまで読まれた絵本に出会った。山本序周編・橘守国画『絵本故事談』である。現存数も多く、多くは手ずれ痕がある。正徳4年(1714)の刊行で、和漢の故事を全232項目収録する。北宋時代の類書『太平広記』などを書き下した日本の故事集である浅井了意『新語園』、宮川道達『訓蒙故事要言』などを利用し、中国の仙人や日本の武将や女房歌人の様々な逸話が、子ども向けに漢字平仮名交じりで書かれている。半紙本で、8巻構成の全9冊。国文学研究資料館の松野陽一旧蔵本のひとつは、巻二から六までしか残っていないが、少し大きめの本である。細密な挿絵は大人をも魅了する。ルビ付きで、文字がよく読めない子どもも読もうとしただろう。現代でもくずし字の教材に適している。
 画中の世界に入り込んだような錯覚を起こす話がある。後漢の時代、仙人になろうとした費長房の話。市場に薬売りの壺公(ここう)という老翁がいた。老翁は営業時間が終わると(つぼ)の中にスッと入って店じまいをする。それを目にした費長房が気になって尋ねると、明日ここで待ち合わせよう、と約束する。翌朝彼は老翁に壺の中の不思議な世界に招き入れられる。芥川龍之介『杜子春』、安野雅一郎作・光雅画『壺の中』など、童話や絵本は空間を読み換える装置だった。小さなものが、ここではない、どこか広い世界につながっている。
 書物に付与された様々なデータは、過去の作者と作品と、読書の歴史の記録である。それらは未来に誰かがもう一度出会い、読み返すために本に結び付けられている。『絵本故事談』について、詳しくは神谷勝広「『絵本故事談』」(『館報 池田文庫』20号、2002年)を参照されたい。

(特任助教 幾浦裕之)

読売新聞多摩版2022年7月20日掲載記事より

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