其所縁源氏都々一
(そのゆかりげんじどどいつ)
「年たちかへる朝の空のけしき、名残なく曇らぬうららかげさには......」の言祝ぎから始まる『源氏物語』初音巻は、光源氏の豪邸「六条院」の新春を描く巻である。この巻は公家の恒例行事として正月に朗読され、姫君の婚礼調度のモチーフとなるなど、54帖の中でも格別に縁起の良い存在となっていった。有名なフランス王妃マリー・アントワネット(1755~93)の所持した東方コレクションの中にも、初音巻の意匠の蒔絵香箱があるという。紫式部が描いたのどかな春の日の情景は、およそ800年の時を隔てて、海彼の王侯貴族にどのようにイメージされていたのだろうか。
同じ18世紀後半の日本では、俳諧・川柳・狂歌といったより大衆的な文化の中で、『源氏物語』に想を得た作品が数多く生み出されていた。それらの担い手は、主として裕福な町人や僧侶、また彼らと接する遊女といった階層の人々であった。特に三味線の流行と共に19世紀に広まった「どどいつ」は、遊郭でもよく楽しまれたと見え、源氏関係でも色刷りの絵入『なげ扇よしこの源氏』やその廉価版『其所縁源氏都々一』(本書)等、複数のテキストが出版されている。
本書の特色としては、庶民の生活感覚に寄り添う趣向が強いことが挙げられる。曰く、「長いつとめをこの春からは引いて目出たふ初音の日」。当時売り出されていた極彩色の「双六」などを見ると、遊女の「上がり」は花魁の姿で描かれている。しかし本書の挿絵ではゆったりと髪を流して庭の小松を引く女性が「目出たさ」の象徴となっており、憧れの姿として印象的である(画像右上参照)。
その他、蛍巻では「泣くに泣かれず身をのみ焦がす沢の蛍や恋の袖」と切ない恋情がうたわれつつも、挿絵の方では虫籠を持った母親の背中で坊やがにんまりしているなど(画像中央上参照)、当時の一般庶民の姿態がよくうかがえる。
紫式部が知ったら驚くだろうが、『源氏物語』は時の流れの中で鷹揚に姿を変えながら、古今東西のさまざまな立場の人の心を和ませてきたのである。
(准教授 中西智子)
読売新聞多摩版2022年6月15日掲載記事より