嵯峨本 方丈記
(さがぼん ほうじょうき)
「嵯峨本」とは、江戸時代のごく初期に嵯峨野の地で作られたとされる、ある特殊な性格を有する一群の本に付されたネーミングであ。「光悦本」「角倉本」とも呼ばれる。
辻邦生の小説「嵯峨野明月記」やリンボウ先生こと林望「嵯峨本を夢む」(「書誌学の回廊」所収)などによってご存知の方もいるかもしれない。美しい装訂と料紙、そして格調のある書体を活字印刷によって顕現させた、いわばプレミア本である。
その中にもさらにいくつかのランクがある。特装本とされるものには、当館所蔵「方丈記」のように、全ての料紙に月や兎などの雅な模様が雲母によりあしらわれ、透き通るような輝きとして浮かび上がるものや、色替りの料紙、つまり、めくるとカラーバリエーションが目に飛び込んでくる仕様のものもある。いずれも唯一無二の魅力をたたえる。嵯峨本の内容は定番の古典も多く、「伊勢物語」なども当館に収まる。
この嵯峨本、実に謎が多く、本阿弥光悦、ひいては俵屋宗達らがどの程度関与していたかについて確証はない。活字の技術や運用についても研究者が果敢に解明に挑んでおり、近年、その書体が角倉素庵の書をもととすることが明らかになってきた。ともあれ、わざわざ活字を用いて手書きの本を再現しようとした点に、ある種の倒錯的なロマンを感じさせる。
さて、時代は令和。北本朝展教授(国立情報学研究所)らが開発した「 そあん(soan)」なるサービスは、任意に文字を入力すれば、嵯峨本の活字によって出力されるという画期的なツールだ。先月公開されたばかりで、SNSなどでも話題沸騰中である。
当館は嵯峨本の謎に迫る「総合書物学」というプロジェクトを推進中で、そあんはその成果の一環である。このアプリ、ゆくゆくは漢字の追加も検討されており、今後、デザイン方面への利用からくずし字学習支援まで幅広い活用法が期待される。
百聞は一見にしかず。ぜひネット上でお試しあれ。400年前の文字たちが活き活きと躍動する瞬間をお見逃しなく。
(教授 木越俊介)
読売新聞多摩版2023年9月27日掲載記事より