北向雲竹筆『千字文』
(きたむきうんちくひつ「せんじもん」)
『千字文』は梁の武帝(464年~549年)が周興嗣に作らせた漢詩である。「天地玄黄」からはじまる千字でつづられる詩文の全ての文字が重複しないという特徴を生かして、 文字を習うための初学の教科書や書道のお手本として、 あるいは「いろは」のように通し番号の役割としても用いられてきた。 中国では長い歴史のなかでさまざまな時代の書家が『千字文』を書き残しているが、 わが国においても、特に江戸時代以降、池大雅や与謝蕪村などの文人たちが『千字文』を唐様の書でしたためている。 また、教育・啓蒙のために書家が書いた『千字文』が版本となって刊行されることもあった。
ここに紹介するのは大師流の書家、 北向雲竹(1632~1703年)筆の『千字文』である。雲竹は水墨画や俳諧もよくし、松尾芭蕉(1644~1694年)と交流が深かったようで、 雲竹が描いた画に芭蕉が俳句を添えたという記録も残されている。大師流とは、弘法大師空海を書流の始祖と位置づけ、空海の書法と伝わる独特な字形を継承した書の流派である。雲竹は藤木敦直(1582~1649年)や高野山西方院春深といった、 大師流成立の初期にあたる人物らから書法を伝授されたことが知られる。実際にこの『千字文』にも至る所に大師流の特徴がみとめられる。例えば、「守」の終筆を巻き込むような形(右から3行1文字目)、「神」の示扁(同2行3文字目)や「移」の禾扁(同4行4文字目)の形などがそれにあたる。 この書風は和様の書を基本としている。書道史上で言われる寛政の三大家の一人、 松花堂昭乗(1584~1639年)も時折大師流の書法を用いているが、 その次の時世を生きた雲竹もまた、古典復古の風を受けた和様の書を基調に大師流の書法を取り込み、自らの書風として昇華させている様子が窺える。
雲竹は寛永文化から元禄文化への過渡期にあたる文化人オールスターの時代のなかで埋もれてしまい、あまり世に知られていない人物であるが、国文学研究資料館所蔵の『千字文』はその再評価へ繋がる貴重な作例であるといえよう。
(プロジェクト研究員 加藤詩乃)
読売新聞多摩版2021年7月7日掲載記事より