『古事記歌』
(こじきうた)
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
スサノヲノミコトが、妻クシナダヒメを伴って、出雲国の須賀という土地に宮を建てたときの歌とされる。幾重にも出雲の雲をめぐらして垣と成し、妻をその中に置こう――といった意味。『古今和歌集』仮名序には、「素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける」と記され、その、三十一文字(みそひともじ=和歌)のはじめの歌こそが、「八雲立つ......」の一首のことである。以来、和歌の始祖として享受されることとなったこの歌は、実は、もともと、和歌集ではなく、『古事記』と『日本書紀』――奈良時代以前の神話を含む、歴史を記した散文の中に出てくるものである。
現存最古の和歌集は、言わずと知れた『万葉集』である。しかし、『万葉集』に見られるような、個人の感情を五七調に凝縮させてゆく和歌の表現方法は、日本文学史の中に突如として現れたのではない。それ以前には、共同体や不特定の集団の中で、誰が作ったのかわからないけれども、人々に親しまれ、共感を得て来た五七調を基調とする歌が存在したらしい。これを、現在では歌謡と称して、『万葉集』以後の和歌と区別する。おそらく、場や朗誦者によって流動性をもったであろう口承された歌謡の形を知る術は、現代においては、もはや無い。しかし、幸いにも、我々は、『古事記』や『日本書紀』の文脈とともに、そのわずかな跡を見ることができるのである。
『古事記』や『日本書紀』に記載される歌謡は、和歌という個の抒情を詠む文芸の前史として、その萌芽をたどろうとする研究者たちに、古くより注目されて来た。もちろん、古典研究を主軸に日本文化を探求した江戸時代の国学者にとっても、『古事記』や『日本書紀』は、詳しく読み解くべき書物であった。文の途中に出てくる歌を、いかに解釈するかということは、大きな問題の一つであり、歌謡部分だけを抜き出して読むことも、広く行なわれた。
本書は、表紙見返しにも朱書きされてあるように、本居宣長、そして契沖、賀茂真淵、荒木田久老といった、主要な国学者たちの説を熱心に書入れ、正貞という人物の説を加えて、「古事記歌」約110首に注を施したものである。このような古代の歌謡に対する関心が、令和の時代の古代和歌研究へと至る、基盤としてあったことを忘れてはならないだろう。
(プロジェクト研究員 岩田芳子)
読売新聞多摩版2022年3月2日掲載記事より