大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2019/7/ 5

『連光寺村名主 富沢家日記』

 連光寺村(現在の多摩市)名主・富沢家の日記は天保14年(1843年)から明治41年(1908年)まで66冊を数える。内容は名主としての日々の勤めが中心ではあるが、周辺村々との交流や家族の様子など多彩な内容が含まれている。多摩川の水害に関する記述もその一つである。
 富沢家の日記によれば、幕末期にはほぼ毎年のように水害に見舞われていたことがわかる。このうち、特に大きな被害が発生した安政6年(1859年)7月の水害の状況を日記から追ってみよう。

1000iwahashi3.png安政6年7月の水害の状況が記された富沢家の日記


 天気は7月22日から崩れ始め、24日の夜には大風雨となった。25日朝は東北の方向から風が吹いていたが、昼頃にはやんだようである。しかし、雨は降り続き、多摩川、大栗川の水かさが増し、「古今(まれ)なる大水」となったのである。
 連光寺村では、橋が落ち、(せき)が押し流されるなどの被害がでた。多摩川に面した下川原という場所は特に被害が大きく、田畑が一面水に浸り、浸水のため6軒の家が取り払われた。
 7月27日になってようやく雨が上がると、名主はさっそく「水見舞い」として村内をまわって被害状況を確認するとともに、仮橋をかけて村の復旧に着手した。被害の大きかった下川原地域からは「御救米」(災害よる困窮を防ぐため領主などによって支給される米)の要求や年貢の減免願が出された。
 その後、名主はたびたび下川原の村人たちと話し合いを続け、領主である旗本天野氏とも交渉しながら、11月末に年貢勘定にこぎつけることができたのである。

 この水害が多摩地域に与えた影響は大きく、各地で水害の記録がまとめられた。その一つが、福生市に残る「牛浜出水絵図」である。大雨で家々が浸水していくなかで、たらいに乗って逃げる姿や、玉川上水の土手を切り崩し、土砂を上水に投げ入れることで少しでも大水から村を守ろうとする人々の姿が描かれている。冒頭には大水の状況を記した文章があり、寺子屋の教材としてまとめられたとも言われる。地域の防災に対する意識がうかがえよう。
 連光寺村においても、この後「洪水録」という文書が作成され、過去の水害が後世へと伝えられた。

(特任准教授 岩橋清美)


読売新聞多摩版2019年7月3日掲載記事より

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