『東講商人鑑』
街道が整備され、全国へのアクセスが便利になった江戸後期の日本においても、旅は現代以上に非日常の体験であり、多くの危険をはらむものであった。
安政2年(1855年)刊の『東講商人鑑』(甲良山編)は、主に東北地方を旅する人へ向けた地図のほか、各土地における安全な宿や店などを記した、いわば旅行ガイドブックである。15.2㎝×21.5㎝。横長の書物は袂に入れやすい形であり、持ち歩きを想定した実用書であることを示している。
「講」とはある目的のために組織された一種の相互扶助団体。東講設立の目的は、本書の冒頭に掲げられた「例言」に記されている。「旅ほど辛いものはなく、慣れない土地だと不便なことが多い。そこで各土地の宿屋と旅人とで構成された東講を作り、どこでも安心して旅行できるようにする(要約)」。
具体的には、東講に属する宿には目印の札を掛けさせ、旅行者には東講の一員であることが分かる鑑札を渡しておく。目印のある宿に入って鑑札を示せば、東講の名簿と照合の上、安心できる宿を提供してもらえるという仕組みだ。
これは、旅行者のトラブルを避けたい宿側と、安全が保証された宿に泊まりたい旅行者側とが互いに安心できる仕組みであり、一人旅が嫌がられた当時において重宝されたものと思われる。また、東講の鑑札を持っている者同士であれば身元が保証されているため、道中を他人と共にすることになっても安心だという。
挿絵には「東講」という札が掲げられた宿の店先で鑑札を示す旅人と、名簿と照合する番頭らしき人物が描かれており、講のシステムを分かりやすく伝えている。
※新日本古典籍総合データベースにて全文をご覧いただけます。
江戸時代の旅日記の記述などから換算すると、当時は一日に五里から十里程度旅路を進んだらしい。一里は約3.93㎞。馬や駕籠、船も使うが、多くは徒歩であり、旅中の不安は尽きなかっただろう。本書はいわば会員制旅行ガイドブックとして、不安な旅人たちのお供となり、安全を保証したのである。
(特任助教 有澤知世)
読売新聞多摩版2019年8月7日掲載記事より