大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2019/6/28

『新吉野桜植附連名帳』

 19世紀初頭の多摩地域では、和歌・俳諧・絵画・挿花・剣術など様々な文化が興隆し、多くの地方文人が現れた。その一人が連光寺村(現在の多摩市)名主・富澤政恕(まさひろ)(1824~1907年)である。幕末期には日野宿組合の大惣代として奔走し、明治に入ってからは神奈川県会議員となった。
 富澤家文書には、村政関係だけではなく、政恕の文化活動の一端をうかがえる史料も残されている。その一つが『新吉野桜植附連名帳』である。これは安政7年(1860年)2月2日、村人たちが村内の山に桜を植樹した際に作成された文書である(写真①)。

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①新吉野桜植附連名帳に記された植樹者の名前

 この文書には植樹場所ごとに植樹者の名前を記されているが、「末仙」・「白鳳」といった名前が見え、村内に俳号を持つ村人がいたことがわかる。
 植樹の起点となった場所は「花之本社」という社で、庚申(こうしん)神である猿田彦と本居宣長と松尾芭蕉が祀られた。さらに、宣長の和歌と芭蕉の句を刻んだ石碑の建立も計画されたのである(写真②)。この植樹場所は奈良の吉野山になぞらえて「新吉野向岡(むかいのおか)」と称された。

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②宣長の和歌などを刻んだ石碑の設置計画も記載されている

 では、なぜ「向岡」と名づけられたのだろうか。これは、富澤家と交流のあった関戸村(現在の多摩市)名主・相沢伴主(ともぬし)(1768~1849)が中世の関戸郷の歴史をまとめた『関戸旧記』による。伴主はそのなかで、小野小町の和歌に詠まれる「向岡」を多摩川沿いの関戸周辺ではないかと考えていた。武蔵野の歌枕としての「向岡」は場所を特定できるものではないが、地域の歴史にひきつけて再解釈するというのは19世紀初めには各地でみられた現象でもある。
 伴主は允中流(いんちゅうりゅう)という挿花の創始者で、多摩地域に多くの門人を持っていた。富澤家も允中流の門人だったから、おそらく『関戸旧記』を読んでいたであろう。この『関戸旧記』に込められた伴主の歴史意識は、弘化2年(1845年)に『調布玉川惣画図』として刊行された。
 刊行にあたり榎戸新田(現在の国分寺市)名主榎戸源蔵や柴崎村(現在の立川市)名主鈴木平九郎ら、多摩地域の文人たちが無尽を開催して資金を集めて伴主を支援した。連光寺村の桜の植樹は、『調布玉川惣画図』・『関戸旧記』の影響のもと、多摩地域に「向岡」という新名所を創り出したのである。

(特任准教授 岩橋清美)


読売新聞多摩版2019年6月26日掲載記事より

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