大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2021/4/23

『帝鑑図説』

(ていかんずせつ)

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 慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没すると、翌年から徳川家康は盛んに出版活動を行うようになる。木活字を用いた「伏見版」と呼ばれるもので、『六韜(りくとう)』『三略』などの軍学書とともに、古来帝王学の教科書とされてきた『群書治要』を刊行した。あたかも家康が天下人であることを宣言するかのような出版であり、豊臣家に対する牽制(けんせい)の意味もあっただろうと推察する。
 その家康の出版活動に刺激を受けて、豊臣家によって出版されたのが『帝鑑図説』(1606年刊)であった。これを「秀頼版」と呼んでいる。
 『帝鑑図説』は、わずか10歳で即位した明の万暦帝の教育のために刊行(1573年)された。幼い皇帝のために、善い例81話、悪い例36話を選び、簡潔な文章とその解説、それに挿絵を添えたもの。劉備玄徳が諸葛孔明を三顧の礼をもって迎えた話「君臣魚水」や、悪い例として「脯林酒池(ほりんしゅち)(酒池肉林)」「阬儒焚書(こうじゅふんしょ)焚書坑儒)」など、われわれが良く知る話も掲載される。秀頼版は、これを忠実に写して出版したものである。
 秀頼版出版時、秀頼は数えで14歳。この出版が秀頼自身の意思であったかどうかはわからない。しかし、秀頼を武家の棟梁として育てるという周囲の思惑による、家康の出版事業に対抗しての出版であったと考えられるのではないか。
 館蔵掲出のものは、豊臣家滅亡の後、漢文であった文章を和訳して出版されたもののひとつである。挿絵は秀頼版を忠実に踏襲している。
 この和訳本を読む輪読会が催されていたことを示す『帝鑑評』という書物が林原美術館に残されている。岡山藩主であった池田光政と4人の幕臣たちによる著作で、『帝鑑図説』第36話までの批評を和文で記す。中には後に老中となる久世広之も含まれており、外様大名と幕臣との交流という意味でも大変興味深い。
 安政5年(1858年)、『帝鑑図説』は徳川幕府の官板、すなわち公式の出版物として新たに世に送り出される。この年は、十三代将軍家定の後継をめぐる慶喜派と慶福派の争い、日米修好通商条約調印への勅許の問題など、政治課題が山積しており、9月からは井伊直弼による安政の大獄が始まる激動の年であった。その年にわざわざ官板として出版するにはそれなりの意義があったと考えざるをえない。それは、12歳の幼い慶福を将軍に育てるという幕閣の意思表示とみたいのである。
 『帝鑑図説』という帝王学の教科書を歴史の中に位置づけてみると、権力による出版の意義が浮かび上がってくるように思われ、大変興味深い。

(教授 入口敦志) 


読売新聞多摩版2021年3月10日掲載記事より

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