大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より

2021/3/25

『阿仏の文』

(あぶつのふみ)

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 小説ならば毎年発表される各種の文学賞が、また専門書であれば毎週書評家が紹介してくれる書籍が、今年の一冊を印象づける。では本当に多くの人々が読んでいるものは、一体何だろうか。実はそれは自己啓発書であったり、マナー解説の本であったり、人間関係の対処や心の整え方を教えてくれる本、高齢の作家が人生の指南を書いて読者を励ます本であったりする。
 同様の書物は中世にもあり、南北朝時代以降、作法書、礼法書、さらに広い啓蒙(けいもう)書として、種々の女訓書が生まれた。『身のかたみ』、『めのとのさうし』、伝三条西実隆作『仮名教訓』、一条兼良『小夜のねざめ』などがある。このような文化的潮流のなかで、鎌倉時代のある母から娘への一通の手紙が、女訓書としても役に立つものとして発見され、手紙の三分の一の分量に編集された。それが『阿仏の文』(略本)である。
 阿仏尼は若いころ安嘉門院という女院の御所で女房として働いていたが、何らかの事情で退職し、ひとりで女児を出産した。奈良の法華寺、西山松尾の法華山寺のほとりに移り住み、不遇困窮の2年を過ごした。当時の法華寺は宮仕えから離れた単身女性や尼を受け入れるアジール(避難所)、セーフティーネットのような役割を果たしていたのである。
 娘は立派に育ち、宮廷で働くことになった。阿仏尼は藤原定家の孫娘の紹介で、為家のもとで『源氏物語』の書写の仕事などをしているうちに為家と恋愛関係になり、同居することを決めた。その際に当時13歳前後であった娘に宛てて、長い長い手紙を書いて、宮廷女房として働く上での心得を伝えた。
 書・絵・和歌・音楽など女房が身につけるべき職能をいつも稽古せよ。御簾(みす)の隙間から(のぞ)いて人の見た目を品評したり、(うわさ)話にうかつに加わったりしないように。そして甘い言葉で誘う男に騙されてはならない、と母から娘への様々な注意が、『伊勢物語』『源氏物語』のことばを縦横に織り交ぜて書き綴られている。当時は保護者を失った女房は遊女になるなどして零落の危険が高かったのである。
 国文学研究資料館は『阿仏の文』(略本)の現存最古写本ともみなせる一(じょう)を所蔵する。詳しくは、田渕句美子編『十六夜日記 白描淡彩絵入写本 阿仏の文』(勉誠出版 2009年)を参照されたい。もとの手紙の本文は、幾浦裕之「枡型本『阿仏の文』(広本)解題・翻刻」を参照されたい。

(機関研究員 幾浦裕之) 


読売新聞多摩版2021年3月3日掲載記事より

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