大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

2019/1/22

禅の国、日本?

お互いに嬉しい「勘違い」

フランスからいらしたダヴァン先生に流暢な日本語で語ってもらった

フランスの事情

前号で今西前館長が「50/50のグローバルは、日本人研究者も英語かフランス語ができないといけない」という主旨のことを話されていました。僕はフランス語は大丈夫です。フランス語には自信があります(笑)。

日本文化はフランスで大変人気があります。ひと昔前、日本の映画はどちらかというと、日本よりもフランスでの方が人気があると言われていたくらいです。日本の漫画が一番売れている国は、日本の次はフランスだそうです。日本の漫画のほとんどが仏訳されていると言っていいと思います。マニアックだと思われるものでも、なぜかフランス人が知っている場合もあります。フランスの本屋さんに行くと、日本の本屋さんに負けないくらいの漫画本が置いてあります。

日本文学も昔から人気があります。日本思想も人気がありますが、そこには少し「勘違い」が入っていると思います。今西前館長のおっしゃる通りですね。日本のものが海外に出ていくのはいいことだと思いますが、翻訳を通せば理解はどうしても変わってくるわけです。実際はどう理解されたか、その理解に基づいて日本への憧れとかイメージがどう作られたか。それはこれからの研究の大きなテーマのひとつだと思います。

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一休さん

私は一休を研究しています。一休に興味を抱いたのは割と早い段階からですが、それは私の「勘違い」からでした。もともと日本語ではなく哲学に興味を持っており、そこに至るには美学があり、パリの大学で修士論文を書くときに選んだのは、美学の価値観がどういう風に生まれてくるか、ということでした。たまたま図書館で柳宗悦の論文集を見て、お茶の茶碗が室町以前はそれほど価値がなかったのに、戦国になるとものすごく価値が出てくる。短期間で価値が変わった、それならそれを研究しようと思って先生に相談しました。先生に「初心には難しすぎるでしょう」と言われました。お茶の美学は様々な分野でなりたっています。そのひとつに絞ってくださいと。そこで千利休、武野紹鴎、村田珠光、遡れば一休。そこで一休を研究すればお茶の美学を理解できるだろうと思って一休の研究をすることにしました。結局、今はお茶とは何の関係もない研究をしていますけれど。

一休を研究するということは、最初は漢詩ですから文学ですね。でもそれはやればやるほど、文学と思想と両方やらなければならない。それを深めて結果的に思想の方に進んだということです。日本思想です。思想とは何か? いやな質問をしますね。実は思想という言葉は便利で、本心は哲学という言葉を使いたいのですが、哲学という言葉を使うと「日本に哲学はあるかないか」というような硬い話になってしまいますから、思想という言葉を使っています。「仏教思想」という使い方もしますね。みんな思想という言葉を使っていますが、では思想とは何かと訊かれたら、困る人が多いでしょう。一休さんの漫画はもちろん知っています。国文研にいらした岡雅彦先生の本『とんち小僧の来歴』にありますように、一休さんはとんち小僧と言われていますが、実は違います。江戸時代に人気を博した大人の一休の像もフィクションです。室町時代のお坊さん、臨済宗の僧である一休のおもしろい所は、私には「狂雲集」にあります。お酒を飲んだりとか、女性と関係を持ったりとか、そういうことを平気で書いている。それが一休の特徴として一番知られているところでしょうね。破戒坊主のイメージが強いと思います。一休を理解したとはとても言えませんが、思想的に言いますと、一休は日本臨済宗のものすごく大事な転機に立っていて、一休を理解すれば日本臨済宗の大事なことも理解できたと言えるのではないかと思います。

私のやりたいこと

意外と日本の禅ってわからないところが多いです。世界中にとても人気があった分野ですから、全部研究されていると思いがちですが、実はそうではない。江戸時代以前の鎌倉、室町の思想的内容はわからないところがまだ多いですね。で、解明のヒントのひとつは一休だと思うのです。今の臨済宗は白隠禅と言われているのです。白隠は江戸時代の人ですが、彼までに至る過程が一休の時代に始まったのです。

禅は日本の社会にどういう影響を与えたか。二十世紀には「禅と日本文化」という本がいくつかありますが、鈴木大拙先生の本が一番有名でしょう。大変著名であるが、一方とても批判されるわけです。最近ではその本の理解が見直されていますが。鈴木大拙などの影響で長い間「日本文化=禅」という「勘違い」が起きることになります。今でもそう考えている人は少なくないでしょう。たとえば俳句と禅が関係あると言われているのは鈴木大拙の影響があると言われていますが、よく見れば芭蕉の句を禅的に解釈するということは割と早い段階、鈴木大拙よりもずっと前からありました。確かに、日本の文化はなんでもかんでも禅という過ちは過ちであって直さないといけないのですが、では何も関係なかったかというとそうでもありません。芭蕉の周囲には禅の修行をしている在家の人たちがいて、その人たちは自分たちの理解していた禅に基づいて俳句を解釈したことは間違いない。ですから、もう一度きちんと思想を理解して、お坊さんたちがどのように在家と関わってきたか、あるいは在家はどういう風に禅を理解しようとしたのかを、突き詰めなければならない。日本思想と文化を往来することで、何か見えてくるのではないかと期待しています。僕のやりたいことは、だいたいこのようなことです。すみません、長くて(笑)。

「勘違い」はどこから来たか

金閣寺は禅寺ですよね。でも禅寺として誰が観ているでしょうかね。東山文化的なものが禅の象徴であるというイメージがいつから生まれたか。それは僕も知りたいところです。禅といえば竜安寺の枯山水というイメージが浮かんでくるでしょう。それは日本だけでなく世界中そうです。正しいとか間違っているとかでなく、イメージとしてはありますよね。その「勘違い」はどこから来たか。西洋人が禅はそういうものだと思っていたわけではないし、日本人が嘘の禅を作って見せたわけでもない。『禅という名の日本丸』を書いた山田奨治は「魔法の鏡」という言い方をしていますが、自分が美しいと思っているイメージを相手に出す、相手も自分の思う美しいイメージを示す。つまり西洋(主にアメリカ)が、自分たちが持っていたイメージに基づいて「禅はすばらしい」と言ってきたわけです。日本は、「ああ、そうですか。では僕たちは禅です」みたいに。お互いが喜ぶ嬉しい「勘違い」。そのような経緯で今の禅のイメージができたと思うのです。西洋に何かが欠けている、宗教が弱くなった時に物足りなさを感じる。科学は強くなったのですが、何かが欠けていてその欠けている部分は実は東洋にあると。いわゆるアジアだけでなく、概念としての東洋ですね。東洋の何か、そのひとつが禅だということです。おそらくチベット仏教も同じことだと思います。確かに「勘違い」ですが、日本から観ると嬉しい勘違いですね。「あなた、すばらしいですね」「ああ、そうですか。じゃあすばらしいです」ということですね。

研究者の仕事

勉強は大嫌いです。得意じゃないし。でも研究は好きです。他のものが下手過ぎてできないというのもありますが、これしかできないから研究しています。研究者というものはものすごく贅沢だしわがままですね。自分が気になることを突き詰める。それを皆さんの税金でさせて頂いているのですから、本当に申し訳ない。僕は毎日、感謝しています。それならば、逆に何を返せばいいかという問題ですが、自分の理解したことを、考えたことをできるだけ発信することだと思っています。誰もができるわけではないものすごく専門的なことを研究することで、このわがままを許して頂けると勝手に思っているわけです。存在意味があまりないと言われても正直、反論できないです。たとえば、一休を全部理解したとしても、じゃあ社会に何の役にたちますかと言われたら、それまでです。が、逆にそういう文化がないと社会の意義もなくなってしまうのではないでしょうか。日常生活以外のことを考え始めたのが文明の始まりだと思っています。ちょっと飾ろうとか、ちょっと絵を描こうとか。それを詳しく調べるのが研究者の仕事で、こちらから発信することよりも、そこで何を伝えられたか、相手が何を受け取ったかがとても大事だと思っています。研究成果のシンポジウムを聴いて「豊かな気持ちになった」と言っていただければ、それはとてもありがたいことでこれ以上ない嬉しいことです。

ダヴァン・ディディエ氏
Didier DAVIN 国文学研究資料館 准教授。東京大学に4年間留学、2年間はインド哲学、2年間は東洋文化研究所に在籍。その後パリ大学で博士号を取得、フランス国立極東学院東京支部の代表として赴任。 2016年4月から現職。

「えくてびあん」掲載記事より

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