大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

2019/2/20

江戸時代の立川がおもしろい!

大消費地が近いって、今と同じじゃない?

古文書を解読すると、昔の人が動き出す。国文研アーカイブス、最高!

多摩川の鮎、お鷹の道

武蔵小杉辺りに小杉御殿というのがあって、江戸時代の本当に初めの頃、将軍が鷹狩りに来たときの休憩所になっ
ていました。その時に季節が合うと鮎を上納する。それが享保年間、吉宗の時に「上ケ鮎御用」という制度になる。吉宗が子持ち鮎を好きだったところから始まっているのですが、年間に千百尾くらいかな、それを何回かに分けて上納しなさいというわけです。多摩川の上流から中流にかけて、もちろん立川も入りますが、御用請村という「上ケ鮎御用をやりますよ」と手を挙げた村が組合を作って、鮎を漁獲し江戸へ運ぶというシステムがあったのです。

この時代に川柳が流行りましてね、『誹風柳多留』の中にね、『玉川は江戸に出がけに米をつき』という川柳があるのです。これを見た時、「これだっ!」って思ったわけですよ。まさに上ケ鮎御用を詠んだ句だと思ったのです。『多摩川周辺の人は江戸へ出てくるとすぐ米を搗いているよ』ということなのですが、鮎とどう関係があるのか。上ケ鮎御用というのは、川っぺりに生け簀箱を作って漁獲した鮎を囲っておいて、指定の期日前夜に鮎籠に入れて、それを馬荷にして、鮮度が落ちないよう急いで江戸へ向かうのです。届け先は、江戸城の「御舂屋」という施設です。幕府の賄方の食糧倉庫ですが、そんな様子を江戸の人々は見知っているわけです。多摩川から獲りたての新鮮な鮎を運んで、一刻も早く御舂屋に届けようという姿を、江戸の人がちょっと茶化して詠んだ句なのですねぇ。

江戸十里四方、半径二十キロくらいの内側は、将軍の鷹場です。これを御拳場といいます。鷹狩をする時、グローブみたいなのをつけるでしょう? 拳を握って鷹を据えて放す。なので拳、御拳場といいます。この御拳場の外側に御三家の鷹場があります。だいたい北側に紀州家、浦和辺りまでですかね。北東側に水戸家。まさに常磐線沿線と言ったらいいでしょうか。西側は尾張家の鷹場で、立川市はまともに入っています。南側は鷹の訓練場。幕府の鷹匠が来て鷹の訓練をします。武蔵野市と三鷹市の間くらいが御拳場と尾張家の鷹場の境目で、三鷹という地名も鷹場の境杭に由来しています。ですから国分寺や立川の鷹場には将軍は来ていないですね。

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江戸時代の立川

武蔵野の開発は一六六〇年代の寛文の時期と、その後は享保改革の時とあるのですが、享保改革の時にいわゆる武蔵野新田が拓かれていきます。この辺りは江戸という大消費地があり、とても立地がいい。馬に荷物を乗せて、あるいは車力で、頑張れば日帰りできる距離ですよね。立川近辺がぎりぎりだとは思いますが、江戸向けの野菜だとか炭・薪などを売ってね、行ったらそのまま空手で帰ってくるわけではなくて、今度は下肥を調達して積んでくる。地元で肥料にするためですね。糠なども仕入れてきて肥料にする。

下水道が完備される前は、私たちも汲み取り式でしたよね。その場合は汲み取ってもらう方がお金を払う。江戸時代は逆でした。長屋などのある一画に共同便所があって、家主っていうんですが落語に出てくる大家さん。大家さんが汲み取りの権利を、立川辺りから来たある百姓に売るわけです。その農民は、大家さんが管理する一画の汲み取り独占権を持っていて、江戸へ出てきた時に野菜を売って、帰りに汲み取りして下肥を積んで立川辺りに帰る。東側は水路が発達していたので船で運びましたが、武蔵野は馬か車に積んだのでしょう。まさに有機野菜ですよ。

武蔵野の雑木林は、今のように背の高い林ではなくてもっとずっと背が低かったといいます。江戸時代の武蔵野の林相は、クリとマツ、そして雑木と呼ばれるクヌギやコナラなどの落葉広葉樹が中心でした。クリは実が食用になるだけでなく、腐りにくい建築材としてよく利用されました。マツと雑木の関係は面白くて、落ち葉がとてもいい肥料だったので、当時の農家ではきれいに集めて堆肥にしてしまう。すると、土地が痩せて、今度は養分が少なくても育つマツが優勢になります。マツは脂が多くて燃料としては最適で、細枝を伐り払って薪や炭にして、江戸へ運んで売るのです。そしてまた、ちょっと落ち葉掻きをしない場所ができると、そこには落葉広葉樹が育って、たくさんの落ち葉を出す。そんな風に枝木や落ち葉を使いながら雑木林を維持してきました。今では落ち葉や枝木を堆肥や燃料として使わないようになったため、土壌の富栄養化が進んで、落葉広葉樹林の次の段階となるシイ・カシなどの常緑広葉樹が繁茂して、背が高く立派な林になってしまったというわけです。

アーカイブス

どうしてそんなことがわかるのかという話です。それは地域に資料が残っているからです。古文書とか紙に書かれたものがある。今から少し前なら写真とか映像とかでもいい。そういったものを丹念に調査して一般の方にも見ることができるようにするのが、国文研のアーカイブスの仕事です。

私は大学も多摩地域だったので、土地勘があるということで、この地域の文書をおもに担当しています。まず古文書を整理して目録を作ります。国文研に来て最初に担当したのは、多摩市の石坂家文書でした。中和田村、今のモノレールの大塚・帝京大学駅辺りです。浅井という旗本の領地、旗本というのは大名になれていない幕臣のことです。大名は一万石以上、一万石以下で将軍にお目見えできる人たちを旗本と言うのですが、浅井家は貧乏で、領地からの年貢の前借りは当たり前、村役人たちを保証人にして江戸の町人から借金を繰り返すありさまで、挙げ句の果てには裕福な旗本の家を転々として、地元では「居候地頭」と呼ばれていました。殿様が居候地頭だと、領民も肩身が狭いんですね。露骨に差別されることもあって、和田の領民が地頭のために立ち上がり、財政プランを立てて交渉しにいくなんていうこともあったようです。そういったことが文書からわかります。

国文研が多摩地域に移転してきて、地域の方にも理解していただこうということで、立川市の教育委員会に招かれて公開講座などもやりました。今は、三多摩公立博物館協議会の方たちと一緒に、研修やワークショップなどをしています。こうしたネットワークができていないと、例えばお蔵が取り壊されるということがあっても情報を得られない。文書が入っているかもしれないお蔵が壊されるという事態はいつでも起き得るんです。実際に立川でも砂川八番に須﨑さんというお宅があって、そのお蔵が取り壊される寸前に立川歴史民俗資料館に連絡が入り、筑波大学の白井哲哉さんたちのグループが大急ぎで調査をしたということがありました。古民家園に移築された三階建の蔵で、三階と二階に資料が残っていて、それを整理するということで、私も呼ばれて手伝っています。立川市では、市史編纂の事業が始まりました。そこでも文書の所在把握や整理は、重要な仕事と位置づけられています。

砂川村は大きな村で、全体をみる名主さんは砂川さん。村の中がいくつかの組に分かれているのですが、はじめは八番までで、幕末には十番まで。須﨑さんのお宅は八番組の組頭だったのです。最終的には名主が全部を束ねていたのですが、その組の中の財政というのはよくわかっていなかった。それがこの須﨑さんのお蔵から文書がでてきて、徐々にわかってくるようになりました。組頭は、本来名主がやるような仕事の下請けを全部やっていたようですね。例えば、火事になった時の事務処理。一軒焼けただけだったら名主さんに言うだけでいいよねって。あまり大事にしないということですね。でも類焼しちゃったら、これはもう代官所へ訴え出るしかないよね、という細かい取り決めまでやっていたり。幕末の砂川八番は二十八軒ありましたが、そのうち姉さん女房世帯が七組もあるんですよ。こんなことも面白いでしょう? 砂川は女性にとって結構住みやすい村だったようです。理由のひとつには、養蚕と織物をやっていたので、女性の労働力が必要だったこと。ですから御当主の姉妹や娘が奉公に行かなくていいわけですよ。織物は村山絣を作っていて、子宝に恵まれるという群馬県の産泰社の講を組織して、奥さん方の代表が年に一回お参りに行くというようなこともやっていました。相対的に女性の地位が高かったのでしょうね。こうした地域のもっているアイデンティティとか個性とかをきちんと記録していくことは重要ですよね。古文書もそうですが、現代文書もアーカイブスとして大事です。行政文書は残ると思いますが、民間の文書が残っていかない。戦前のもので民間のものが危ないです。紙も悪いからボロボロになっていたりするんで、捨てられてしまうんです。地域のことを知る重要な手掛かりになるんですけれどね。ところで、えくてびあんの文書管理はどうなっているんですか? できあがった冊子はきちんと保管されているでしょうが、一冊ができるまでに写真だって、原稿だって、そのひとつを選ぶまでに何百枚ってあるはずですよね? えくてびあんの眼を通して観てきた「立川」。絶対いい記録になるはずですよ。いやあ、その保管ってどうなっているのか、興味あるなあ。

太田尚宏氏
国文学研究資料館准教授。専門は日本近世史。東京学芸大学大学院教育学研究科社会科専攻(修士課程)を修了後、東京都北区の北区史編纂調査会編纂専門員、公益財団法人徳川黎明会徳川林政史研究所研究員・主任研究員を経て、二〇一二年四月より国文研。武蔵野を含む江戸周辺の地域編成に関する研究や漁業史・林業史などの産業史研究に従事する。著書に『幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域』岩田書院、共著として『森林の江戸学』東京堂出版、『江戸時代の古文書を読む』全十冊東京堂出版、『江戸文化の見方』角川学芸出版など。

「えくてびあん」2016年6月号掲載記事より
※役職は掲載当時のものです。

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