バチカン図書館とのコラボ
マレガプロジェクトがむすぶ国際交流
二〇一一年、バチカン図書館が、近世豊後地方の切支丹関係史料を大量に発見した。
総点数一万数千点。
イタリアの宣教師 マリオ・マレガ神父が在日四十五年の間に収集し、バチカンに送ったものだった。
マリオ・マレガ神父
一九〇二年イタリア生まれで、ウィーンやトリノで教育を受けてサレジオ会の修道院に入ります。修道院はフランシスコ会やザビエル会など、いろいろありますが、マレガさんはサレジオ会。一九二九年に日本に来ます。途中出入りはありますが、一九七五年まで日本にいた宣教師です。
マレガさんは宣教師としてはあまり活動的ではなかったようです。宣教師の仲間たちもそれはもう諦めている。彼には研究をさせておくのが一番いいと。だからこの収集活動や研究に専念できたわけです。マレガさんは一九二九年、サレジオ会第二陣の宣教師として日本に来ました。第一陣は一九二五年にやってきています。記録を見ると、第一陣で来た人たちは「南米か日本かと自分たちは思っていた」とありますね。つまりヨーロッパから見たら日本は南米と同じようなものだったわけです。そこへ行ったらもう自分は戻れない。バチカン法王によって派遣され、本当に骨を埋めるつもりでやってきています。マレガさんも二十代後半で宣教師として日本に来ていますから、その段階でもうイタリアへ戻ることは諦めている。マレガさんがイタリアへ戻ったのは、一九七五年、亡くなる三年前でした。
マレガ文書
マレガ文書の中には、日本の古文書が一万数千点、その他にマレガさんのメモや書簡類などがあります。マレガさんは言語に関しては天才的なところがあったのでしょうね。最初に彼がやったのは、古事記の日本語訳なのですよ。それは今でも研究の成果として通用しています。江戸時代の古文書を解読して史料集も出版している。「豊後切支丹史料」は日本語で書かれ日本で出版された史料集です。それを利用してイタリア語の論文もたくさん発表されているのですが、日本の切支丹関係の史料をきちっと読んで、それをイタリアに紹介したということでも、マレガさんは最初の人でしょう。史料集の刊行によって、彼がたいへん上質な史料を所有している、しかも、未収録のものが相当にあると日本人研究者たちは思いました。ところが戦後、史料についての情報が曖昧となり、行方不明となってしまった。今回はっきりしたのですが、一九五三年にマレガさんは史料をバチカンに送っていたのです。しかし、バチカンでもそれを忘れ、収蔵庫の奥の方で半世紀以上静かに眠っていた。二〇一一年、図書館の職員が、何か変なものがあるぞと引きずり出してみたら、保存袋に入った大量の日本の史料だったということです。
地域的には豊後(大分)の臼杵藩の史料が大半で、宗門改めなどを担当した「宗門方」役所の文書です。他地域と違って、転び切支丹がたくさんいる。転び切支丹とは、切支丹から転んだ――近世初期のゆるい時代に切支丹になったのだけれども、禁制が強くなって改宗した人たちのことです。幕府は転び切支丹当人を含め五代に渡って監視します。転んだから無罪放免ではなく、ずっと追いかけられる。五代に渡って追いかけられる人たちのことを類族と言います。毎年類族調査があって、一般の人とは扱いが違って非常に厳格というか厳しい。転んだのは誰で、この子は、その孫、そして曾孫とか玄孫とかというように追いかけられる。転びではない人に嫁いで子どもが生まれると、その子は類族になるというようなことで、村人は当然、藩も管理が大変なのです。でも幕府のお達しだから一生懸命にやる。管理や報告の関係で類族系譜などを作成することも行っていたわけです。
いろいろなドラマがあります。村に類族がいたら村役人がその管理に関わらざるをえない。家から出奔していなくなったなどということになると、その探索は熾烈です。そういうことが起こらないようにという藩や村の役人の苦労なども大変です。長崎など隠れ切支丹が多かったところでは、村人はお寺の檀家の形をとっており、お坊さんがやってきて弔いもする。でもお坊さんが帰った後で、弔いをやり直すわけです。もちろんお坊さんはそれをわかっていて、あとは頼みますよというようなことがあったといいます。
世界の東のはずれの国に、弾圧下で信仰を二百六十年も守り通した人たちがいる。明治になって隠れ切支丹が現れる。それはキリスト教的には大変な驚きをもって伝えられ、布教の関わる大きな神話となる。だから法話などでも度々取り上げられています。その弾圧時代の史料をバチカンが持っている。布教の歴史を物語るものですから手放せません。日本人がこれを返却して欲しいと言えば言うほど、手放したくない。二〇一四年一月、史料の発見をバチカンと日本で同時記者発表したのですが、AP通信とかAP通信も大きく取り上げ、世界中のメディアが報じました。しかし、日本と各国では報道の中身が違っていた。欧米ではキリスト教布教との関連で報じたのですが、日本では歴史資料が発見されたと報道していた。彼らが見ているものと、僕らが見ているものでは史料の価値が違うのかもしれないですね。
マレガ文書の調査
二〇一三年十一月二十六日、正式に人間文化研究機構とバチカン図書館が調査協力に関する協定を結びました。有名なバチカン美術館は観光客も多いが、図書館は城壁の中にあって観光では入れません。図書館も大変大きな組織であり、とくに修復部門や撮影部門(撮影所)、研究部門が充実しており、修復部門では十数人の修復士がいて、十二世紀頃からの史料を修復しながらキチッと後世に伝えています。
調査方法をどのように提案するか考えました。日本人の研究者たちがやってきて史料が壊された、わけがわからなくなったと言われてしまったら具合が悪い。そういう意味でヨーロッパにおける史料調査のありようとか、レベルが気になりました。そこで、しっかりと説明責任を果たせるような調査、必要となれば元に戻せる可逆性に留意して、もちろん相談しながら進めました。日本における古文書調査をバチカンに持ち込んだということですが、結果、「日本はかなり丁寧なやり方だね」と言われています。日本仕様はバチカンでも通用するし、参加者が分担して作業を手際よく進めている点については驚いているようです。
二〇一三年から現在までにプロジェクトがどのくらい進んだかということですが、作業レベルをいくつかに分けています。第一レベルはバチカンの収蔵庫の奥に保管されていた二十一の保存袋を開封して、史料一点一点に番号をつける。つまり取り上げです。もとあった場所がわかるように記録しながら番号をつけて、戻せるように。その第一段階の調査が今年で終わります。四年間かかりました。二段階は修復。日本は技術指導してバチカンが修復する。バチカンの修復士は以前から修復に和紙を使っており、裏打ちとか閉じた紐を直すなど、和紙使いに慣れています。今までにも全点チェックして数千点を修復しています。日本では修復部門が育っていない。所蔵史料をきちんと修復できるバチカンは欧州でも優れている存在かもしれません。やっぱりすごいところです。
次の段階がデジタル撮影です。バチカン図書館の撮影部門も大変充実しており、大きな撮影所が複数あり、世界のさまざまな機関・撮影技師が出入りしています。マレガ文書はバチカン図書館が撮影を担当しており、カメラではなく大型スキャナーを利用します。我々が撮影することも考えたのですが、所蔵者が自らの所蔵史料の写真も撮れないのでは問題と考え、古文書撮影の方法も伝えました。日欧では縦書きと横書き、右から左など書く方向が異なる。撮影技師にこうした情報から伝えたわけで、これも協力活動です。慣れるまでに数か月を要し、現在ではスムーズに処理が出来るようになりました。二十メートルくらいの長い巻物もあり、スキャナーが威力を発揮します。史料へのダメージも少ない。横長の帳面、イタリア語・ドイツ語・英語の新聞など大型のものも簡単です。このデジタルのフォーマットが、jpgとかtifではなくNASAの開発した非常に高細密な保存が可能なfitsです。バチカンはすべてこの仕様で、自らの所蔵物のデジタル化を進めており、マレガ文書とは直接関わりはないのですが、現在、日本のNTTデータなども関係しています。
デジタル画像が日本に届くと、文書目録作りです。手分けして二十人くらいが担当して進めています。このプロジェクトには、国文研では太田尚宏准教授とか、青木睦准教授、渡辺浩一教授、加藤聖文准教授などが参加しています。あとは歴博と東大の史料編纂所、大分県立先哲史料館、臼杵市の方々が関係しています。日本で切支丹関係の研究者が減ってきていることが残念ですね。
日本の役割
グローバル化が叫ばれますが、これを支えるのはやはりきちっとした調査とそれを支える基礎研究です。これができなかったらプロジェクトの基礎が固まらない。足下が盤石でないと飛行機は飛べないのですよ。だから相手が驚くくらいの技術力をもってあたらないと相手にされないのがグローバル。幸いにこの分野での調査の動向は、グローバル化される前に日本国内で相当積み上げられてきたものが、結構高いレベルにあった。それは一種のガラパゴスかもしれない。今回は世界の動向なども見極めながら、相手とちゃんとすり合わせてそれを持ちこんでいます。
保存や修復の中心になっている青木(准教授)さんとも話して、日本でやっている自分たちのものを直輸出するのではなく、バチカンの修復士との話や技術交流を通して、新しいモデル、マレガモデルを作り上げようとしてきました。十月にはバチカンと共同で、日本の修復技術とバチカンでの取り組みをヨーロッパの人々に伝えるための研究集会、ワークショップを開催します。日本の歴史・伝統を直接語るのではなく、バチカンとの作業を通じて、バチカンと一緒に伝える方法がどのような評価となるのか、楽しみにしています。日本の歴史・文化を伝える方法としても興味深いものと考えています。
バチカンとの共同作業は、あと四年から五年続きます。文書の撮影、それによる目録作成、そして共同研究が一層進められることになります。なによりも、バチカンに日本の切支丹関係史料が大量にあることをもっとヨーロッパの人に知ってもらわないといけません。歴史文化を通じて相互理解が深まることで上質な交流やグローバル化が可能になるものと考えます。バチカンの史料は、我々にとって、またとない文化交流のための架け橋になるのではないかと考えています。その存在と価値を国際的な会議の場においても、積極的に発信することがプロジェクトの務めだとも考えています。
大友一雄氏
茨城県出身。日本史学者、アーカイブズ学者。専門分野は日本近世史、記録史料学。徳川林政史研究所研究員を経て国文学研究資料館。現在は教授・研究主幹。今般の「マレガ・プロジェクト」代表。九州で大友宗麟が打たれた後、その子孫が佐竹藩に預けられたという史実から大友宗麟とご関係があるのかとうかがうと、「ないですねぇ。江戸時代、貞享年間に福島県いわき市にあった窪田藩のお家騒動で藩が潰されるんですが、僕のところはそこの家中で茨城に土着した家系みたいで、あんまり面白くない」のだとか。ルーツがわかるのが羨ましい。
「えくてびあん」2016年11月掲載記事より
※役職は掲載当時のものです。