香魚 ―多摩の清流と鮎漁業―
通常展示の一部のスペースを使って、当館所蔵の作品を展示いたします。
香魚 ―多摩の清流と鮎漁業―
会 期:令和4年(2022年)10月19日(水)~令和5年(2023年)1月25日(水)
開室日:月曜、水曜、金曜(祝日、12月26日(月)~1月6日(金)を除く)
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武蔵国の多摩川は、万葉の昔から和歌に詠、山城・摂津・紀伊・近江・陸奥の「玉川」とともに「六玉川」とよばれて、歌枕の一つとして知られています。この多摩川の名産品として、江戸の人々に珍重されていたのが「鮎」でした。「箱入の玉川外かの国になし」(『誹風柳多留』第24篇)という川柳では、箱入りで売られる鮎を通じて、身近に「玉川」を感じられるのは江戸だけだと自慢しています。
当館には、渋沢栄一の孫で日銀総裁や大蔵大臣を務め、漁業史・民俗学の研究家としても知られる渋沢敬三が収集した「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」という文書群があります。この展示では、これらの中から多摩川の鮎漁業に関わるものを紹介します。
1.鮎の生態と漁法
鮎は、粘膜から独特の香りを発するため「香魚」ともよばれました。毎年9~10月に川の下流近くに産み付けられた鮎の卵は、孵化した後、流れにまかせて海へ出て、そのまま早春まで過ごします。3月頃になると鮎は川を遡り、6~7月には上流の適地に棲みつきます。そして9月頃になると、産卵準備のため川を下っていきます。これが「落ち鮎」とか「子持鮎」と呼ばれるものです。鮎の寿命は約1年で、産卵を終えると短い生涯をとじるため、「年魚」という別名もあります。多摩川の鮎漁業では、その生態に即したさまざまな漁法が用いられました。これには、釣漁のほか登り簗漁・下り簗漁・投網・跳ね網・しら漁などがあり、鵜飼などの方法も使われました。
2.江戸城への鮎上納
江戸時代、多摩川・秋川流域で行われた毎年秋の一大イベントは、「上ケ鮎御用」とよばれる江戸城への鮎上納でした。この御用は、鮎を漁獲して江戸城の御舂屋へと運び、将軍以下の食膳に供するもので、子持鮎を好んだ8代将軍徳川吉宗の命により、延享2年(1745)から始まったといわれています。上ケ鮎御用では、上~中流の上納を希望する50か村ほどが御用請村に指定され、上納期間内の優先的漁業権が与えられました。納入は8月末から9月に4~5回に分けて行われ、年間上納数は1100~1300尾に達しました。川の増水で獲り溜めておいた鮎の生簀が流出するなど、村々では苦労が絶えませんでしたが、上納完了後には幕府から鮎代と鮎籠代などが支給されました。
3.漁場をめぐる争い
「上ケ鮎御用」以外の時期の多摩川では、運上金を差し出すことを条件に、各村の地先の水面に限って鮎漁業が認められていました。しかし、多くの鮎を漁獲しようと他村の漁場へ侵入したり、新規の漁法を開発して鮎を根こそぎ捕らえてしまおうとする事例もしばしばみられました。こうした行為は当然、村々の間でトラブル(争論)を引き起こします。被害にあった村では、幕府や領主に出訴して吟味を求めました。幕府・領主は、訴訟方・相手方の主張を書面で提出させたり、場合によっては役人を派遣して実踏調査を行ったりして、紛争の解決に努めました。こうしている間に周辺の村々が仲介に入り、双方の主張を聞いて内済(示談)させることもありました。
4.多摩名物の鮎 ―活用と保全―
近代に入っても、多摩川の鮎漁業は続けられ、「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」には、支流の秋川沿岸にある五日市村の明治初めの記録の中に、鮎漁業を営む「鮎稼人」に関する記述がみられます。一方、幕府によるさまざまな漁場利用の規制から解き放たれたことにより、多摩川の鮎も年を下るにしたがって、乱獲による資源の減少などが懸念される事態になってきます。そこで地域の人々は、有識者の調査結果を参照したり、漁業組合が連合して「鮎増殖後援会」を組織するなど、鮎の「繁殖」「保護」を重視する動きがみられるようになりました。
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